脳下垂体彼方は何故死んだのか

 それの行為自体に罪はないものの、人のこころを殺すにあまりに長けているので、やっぱり咎だ大罪だと騒ぎ立てなければしっくりしないのだ。
 だって、それはなければならない機能なのだ。なければならないのに、人殺しのショックとして成る。どうしてと咎められる。もう何もないのに。己の手の中、脳の中、あるいは日記でもつけていれば何かが変わったのかもしれない。
 わたしは、その努力を怠ったゆえ、犯罪者なのかもしれない。


 脳下垂体彼方、17歳。市内の高校に通う3年生。一時限目後、空き教室で首を括っているところを生徒が発見し、教師が警察に通報。救急搬送されるが、2時間後に死亡が確認された。

「先輩、これってイジメですかね」

 心ここに在らず、といったふう、あるいはなんの関心も動かされていないような声で呆然異質は言った。彼に「さあ」と返したのは脳下垂体勿忘。どちらもこの事件を捜査するように命令された刑事であり、2人は事件現場のあちこちを動き回っている。

「死因は首吊ったせいでの呼吸器圧迫、酸欠……ガイシャの遺体にはそれ以外の目立ったキズは無し。俺はココロ無いコトバのイジメを苦にしての自殺だと思ってんすけど、どっすか?」
「それを調べんのは今からだろうが。呆然、邪推はお前の専売特許だが、それで不快になる人間がいる……かも、しれないんだぞ」
「でも。先輩なら平気じゃないっすか」

 勿忘は呆然に答えなかった。その通りだったからだ。「行くぞ」と簡潔に一言だけ、呆然の方を振り向くこともしなかったが、呆然は「ハイハーイ」とさも当然のように後を追った。

「……あれってほんとに刑事さんなの……」
「……さあ……最悪じゃね……」
「……注意……されなかったよね……」
「……」

 立ち入り禁止のテープを無視して教室内にいた生徒たちは、そんな勿忘と呆然を見て陰口を叩き始めた。勿忘と呆然は、生徒たちに気付いていなかったのではない。気付いて、無視していた。いないものとして扱われていた。
 そんな経験はなかったのであろう生徒たちは、勿忘と呆然に対し明確な恐怖と怒りを持って、数時間前まで人が死んでいた教室で陰口を続けていた。

証言一:担任教師

……脳下垂体は……えっと…………少し、変わっていました。
勉強も出来ないわけじゃない、運動神経も……ただ、人と話すのが得意ではなかったようで、クラスメイトからは…………わ、わたしも……彼女を避けていた、節がありました。
イジメの事実ですか……わたしは…………例えば、プリントが届かないとか、ノートが破られたとか、そういったのは聞いたことがありませんし、見たこともありません。か……隠れて、やられていたら……わかりませんけど……
……あと、かなり忘れっぽい性格でした。少し心配になるぐらい……物もよく無くしていて……提出期限ギリギリの課題とか。体育後、メガネが無いと彼女が言っていて、クラス全員で探したことがあるのですが……靴箱から出てきたこともありました。
……もしかしたら、それがイジメだったのかも……
……すみません。

「フーン。こりゃイジメの線が濃くなってきましたねえ先輩! 物を良く無くす、ホウホウホウ! それは無くしてるんじゃなくて奪われてるんじゃない……!?」
「呆然、口を慎め。塞ぐぞ」
「えー。でも先輩っすよね、聞き込み調査以外は枷外していいっつったの」
「俺はお前の先輩なんだから、お前は俺の機嫌を取らなくちゃとも言った」
「オーボー! 上司に訴えようかなー!」
「その上司に銃抜いたバカがなーに言ってんだか…………あのなあ……この課に左遷で済んだことは、」
「キセキ、ダカラソノキカイヲムゲニスルナ」
「うん。わかってんならいい」
「ハーイ……」

 去っていく勿忘と呆然を見て、教師――帯江怯ヱは怯えていた。正確には、怯えと頭痛と不快感と畏怖に頭をいっぱいにさせていた。きちんと閉められた扉を眺めて、それからまだ頭がぐるぐるした。
 ――何故、あの刑事さんは口枷をしてたんだろう――
 ――勿忘さんは、仮にも娘が自殺したのに、何故あんなに冷静なんだろう――
――何か特殊な事情が、ある、んだろう――
 そう、半ば無理やり結論付けて。それでも、まだ怯ヱは怯えていた。

証言二:クラスメイト

頭がおかしかったんですよ。脳下垂体さんは。クラス全員、下手したらこの学校中のひとが知ってることです。多分、怯ヱ先生は刑事さん達にそう言ってないですよね。怯ヱ先生はそういうところがあります。
委員長、という立場もあって、脳下垂体さんとはよく話していました。雑談はしたことありませんけど……いや、脳下垂体さんは、もしかしたら雑談と思ってたかも。
その度私は不快でした。だって彼女、頭が悪すぎるんです。成績とか、そういうんじゃない。私はなんで脳下垂体さんがひまわり学級にいないのか、常々不思議でした。
人と話したことを忘れる。注意したことも全部。話しかけていないのに話に混ざってくる、と思えばじっとこっちを見てるだけだったり、時には的外れなことをして……文化祭の準備の時、黒板消しクリーナーの中身をぶちまけたんですよ。確かにその時、とある男子が「白のポスカ塗るのダリー」とは言ってましたが、それはあくまで軽口だし、誰も脳下垂体さんに話しかけてない。それなのに中身をぶちまけて、その日は掃除で準備を進めるどころじゃありませんでした。
イジメはなかったと思います。話しかけられても無視なんて、少なくともこのクラスはしてなかった。だけど、みんな厄介者扱いを心の中でしてました。それを集団イジメとして扱うなら、集団イジメだと思います。
彼女が死んで悲しむ人は、学校の評価と心無い誹謗中傷に怯えることになる校長先生だと思います。

「なんか……スゴかったっすね。勢いと口が。相当ストレス溜まってたんだろうなあ」
「そうだな」
「あの教師、「クラス全員で避けてる」をイジメにカウントしないんだーとか思ってたら、それ以上のヤバ事実隠しててウケますね!」
「おう」
「先輩元気ないっすか?」
「……あんだけ舌が回る真面目な人材が羨ましい……」
「えっ!! ……あの子、俺の座を狙っ……!?」

 クラスメイト――里路整然は、教室内で俯いていた。
 ――そうよ。あんな子、死んでも誰も悲しまない――
 それは整然のまったくの本心であり、かつ誰も言いたがらない全員の本心だと理解していた。
 普通の高校生、普通の教師。普通の人は、それがどんなに悪人でも、それにどれだけ迷惑をかけられて、どんなに辟易していようと、「死んで良かった」なんて他人に朗らかに言える精神力を持っていない。
 だから整然は、正しい行いをした。
 誰も言いたがらない汚れ言葉を吐き出した。証言として。
 ――悲しまない。私は、間違ったことを言ってない――
 ――私が、気を病む必要は、ない――
 整然だって普通の人であることに、誰も気付いていなかった。


証言三:友人

かなちゃんはね、不思議なコでした。だからあたし、かなちゃんのこと大好きです。
イジメられてましたよ。この学校みんなから。
イジメって言葉、よくないですよね。人権侵害、自由意志の剥奪、確かに……かなちゃんのイジメは、肉体的暴力は伴ってませんし……いわゆるヒドいイジメ、ではなかったと思います。
でも……本質ってそれかなあ。
刑事さん、どう思いますか? かなちゃんは確かに、イジメの事実に気付いてなかった。でも今こうして死んでます。それはかなちゃんが、気付いていないにしろ感じ取っていて……苦にして……死んだ。その真実、本質を、刑事さんは探すために……あたしとお話ししてる。
かなちゃんはおしゃべりが大好きで、人の役に立つことも大好きです。でもちょっとだけ忘れっぽいから、その人がどんな助けを求めてるか、どんな言葉が苦手だったか、ちょっとだけ忘れちゃうんです。
かなちゃんは毎回、きちんと「何をしたらいい?」「この言葉苦手だっけ?」って聞いてました。その度「普通に考えてよ」「普通に」……
これって、イジメじゃないですか? あたしはかなちゃんが、普通がなあんにもわからないコだって知ってたから、そんなひどい言葉使ったことありません。
イジメられてましたよ。脳下垂体彼方は、クラスメイト全員から。

「……」
「どうした、呆然。お前好みの、ふわふわした女の子だったぞ」
「毒花。俺、あのビッチ嫌いです、先輩」
「ビッチ言うな。次行くぞ」
「ハアイ……」

 勿忘と呆然に手を振って、扉の向こうに見えなくなった時。友人――導姫真宵は、顔半分が裂けたような笑みを浮かべた。それからくつくつと肩を揺らして、ぱっちりとした二重の、大きな瞳から涙をこぼす。
 ――ああ、ああ、かなちゃん――
 ――かなちゃん、しんじゃったんだ――
 真宵は勿忘と呆然が聴取に訪れるまで、その事実を受け入れられないでいた。それが今、死んだと、真宵の目にとっては確かにあったイジメの事実を吐き出して、ひと心地がついた。ついてしまったのだ。
 クラスメイトに殴られてついた新鮮なアザを抑えても、その涙は止まらない。絆創膏と湿布が濡れて剥げかかったころ、真宵は暴言で真っ黒の上履きを履き直して、未だに湿った鞄を持って帰路についた。


証言四:父親

え……何。ここまで記録残してんの……? はあ、まあ俺だからいいけど……何回も見直したり聞き直すのがめんどいだろ、呆然。わかったか? 次から本題以外は録音しなくていい。
……で……ああ、彼方が死んだことか。イジメの事実? 知らなかったよ。でも俺の娘なんだからイジメられてもおかしくないっつーか……うん。信用されてなかったんだろうな。昨日は俺家にいなかったし……残業でな。そう、呆然、お前が証人してくれるだろ? 脳下垂体勿忘は子供からの信用は薄いって。
怯ヱ先生が言ってたように、怪我とかは一見なかった。プリントは……掃除したらよく家のあちこちから見つかるから、ただ彼方が無くしてるだけ、だと思う。昔から異常なほど物忘れするし、物無くすのも俺と同じ。
うん。だから俺は……イジメを苦にしての自殺とかじゃないと思う。イジメじゃなくて、単に生きるのが辛くなったんだろ。「この先一生誰からも厄介者扱いされて「普通が」「普通が」ってわかりもしない当然を強制されるの?」って……死ぬところまでいけたのは、彼方の衝動性にあっぱれ、って感じだな。
あの子は強いな、死ねるだけの根性があった。

「フーン。そっすか。つまんねーの」
「全部が全部にドラマがあるなんて期待しすぎだバーカ」

 父親である脳下垂体勿忘は淡々と告げる。実の娘の死を。
 ――異常であったって、本能がないわけじゃない――
 それは勿忘の持論である。彼方も勿忘も異常だ。一般的ではない、普通ではない、当然を知らない、人間ではない。そんな評価が下されるのはもうずっと当然のことだった。
 ただ、自己という本能は確かにある。本能的に美味しい物を好み、本能的に他人の役に立ちたいと思い、それは「群れから逸れないように」という至極本能的な行為であった。
 もちろんその本能には死を遠ざけるそれも、強すぎるほどに存在している。


 脳下垂体彼方は自殺した。
 それは群れからあぶれた獣の、当然の行く末だった。
 獣社会であれば、脳下垂体彼方はきっと死ぬまでに至らなかっただろう。それは脳下垂体勿忘が体現しているところだ。
 しかし、人間社会の中ではそうではない。
 脳下垂体彼方は獣性が強かった。
 人間社会に溶け込めない、その事実を軽く受け止めすぎたのだ。皆が皆一様に「異常」だと、言わずとも告げてきていた理由は、何も脳下垂体彼方を排除しようとしてのことではない。いや――排除と言えば排除だろうが、少なくともクラスメイトはそれを避けていただけだ。道端の、生きているか死んでいるかわからないセミを避けるように。
 保留を、脳下垂体彼方は「排除」だと認識してしまったのだ。

 己の獣性、本能に殺された脳下垂体彼方は、人間社会を恨んではいない。
 ただ、人間社会の中ひとり獣として産んだ神を呪った。