他人と話して痛感するのは、自分のことも他人のこともまるで興味がなく、ただその場しのぎさえできればいい究極の刹那主義者なんだなあということだ。 博愛主義の人間に「博愛」されたことなんてないことがこのおぞけの正体だと思う。と言うよりは、自分の意見が自分の意思とも合ったことがないし、それ故に他人とも合ったことがない本能が恐怖しているのかもしれない。 他人が際限なく嫌いで、そんな自分がきっと死ぬほど嫌いだ。きっと人間にも宇宙人にもなれない自分が、他人の中で生きていかなければな
初めまして! きっと私は天才じゃない。年齢だ経験だ違うんだ、天才はいる。お前である。私が成れないお前である。 この人生幸運だったので、あるいは頭が悪かったので、何者にもなれるしなんでも書けると思っていた。今までビビッときたおニューの名言はいつか自分も作れると思っていた。ただ私には経験が足りないから書けないと思っていた。 きっと、違う。天才というものはいない。誰もが言語化できていない思いの丈をハイセンスに言語化し続けることを、私たちは天才と呼称し遠巻きにしている。発想で
それの行為自体に罪はないものの、人のこころを殺すにあまりに長けているので、やっぱり咎だ大罪だと騒ぎ立てなければしっくりしないのだ。 だって、それはなければならない機能なのだ。なければならないのに、人殺しのショックとして成る。どうしてと咎められる。もう何もないのに。己の手の中、脳の中、あるいは日記でもつけていれば何かが変わったのかもしれない。 わたしは、その努力を怠ったゆえ、犯罪者なのかもしれない。 脳下垂体彼方、17歳。市内の高校に通う3年生。一時限目後、空き教室で
ドックンダッタ、偏見と希望の同時オーバードーズは美しいだろうか? ドックンダッタ、わたしは違うと思うんだ。偏見は偏見以上のものをもたらしてくれず、希望は希望以下の汚らしい欲を昇華した言葉だから。ドックンダッタ、だからわたしは如何様にも成れるし、それはどうしたってわたしでしかないんだよ。 頭の中の偏屈で天才的節回し――自分を大きく見せたいが故のピアスを開ける心理、厨二病、あるいはマジモンの天才か紙一重のバカ――を用いた彼女は、ドックンダッタを笑いながら消えていった。ぼく
上、右、左、下の順に、×、△、○、□に書かれている画像を見た。 それを見て、私は「順がぐちゃぐちゃになっている」と思った。順がぐちゃぐちゃなところに意図を含ませているのだと思った。 思ったところで、自分でハ? と思った。なんで×、△、○、□の順だからってぐちゃぐちゃなのだ?? よくよく考えれば、わたしは昔からゲームのコントローラーに触れることが多かったので、この並びをぐちゃぐちゃと称したのだろう、と結論づけた。 その次に、「×が上ってなんかだなぁ」と思った。わたしの
それはきっとできないことだけど。 生まれつき人に共感されたことがない。こう言うと変だが、例えば思想の話では常に「変わってるね」と言われてきたし、今思えば「わかる」なんて言われたこと無いかもしれない。好きな食べ物、嫌いな食べ物、嫌いな人、好きな人、好きなもの、嫌いなもの。人の形をしているからひとらしい。 自己肯定感の話になった。私はどちらかというと自己肯定感が高い方だ、と思われていると思う。実際は自己肯定感がないのだけれど。 自分の価値のために趣味があるんだろうが、
センチメンタルだ。何かを成した後や何かに追われていたあと、そのたびに訪れる虚無感だ。 今年で18になる。ぼくは生まれてこのかた、あまりうまく生きてはこれなかった。誰かに問題があるとか、そういうんじゃなくて、ただ本当にうまくないだけだ。そういうのってあると思う、麺が啜れないひとがいるみたいに。アレルギーみたいなものだ、うまれつき過敏に反応してしまうから。 今回で17になる。何かから逃げなくてはと焦燥感を押されて、気付いたら財布とスマホだけ持って夜の街に出ているのだ。
これを書いているのは午前2時なのでタイトルは大嘘である。 脳みそがぐちゃぐちゃになった心地がしている。それは爆裂鬱のときの妙に凪いだ「消えたい」に似ているし、何もかもに無気力を抱く。明日、正確には午前9時には登校しなければならないがもう既に行く気がない。休もう。無理。胸を張って、張らなくても人間に紛れられる自覚がない。人間に紛れているのに紛れられている自信が足りなくて、でも授業は楽しいのでまるで人間のように笑っているから却って帰って死にたくなる。 人間の言葉、感情と
初夏ですねえ。と、思います。外へ出るたび、額に汗が滲みますから。暑いですねえ、いや、いや、湿度が高いのがいけないですね。 夏といえば、わたしはアイスを連想させます。アイス、と言っても、あまくてつめたくて、キーンとするものではなく、氷の味がするロックアイスです。それのからん、ころん、と転がる、積乱雲と桶を思い出します。風鈴と、それには水色と赤の池が閉じ込められているのです。 レモンもいいですね。輪切りにしたレモンの浮かぶレモネード。とりわけやっぱり、氷のからころとした音
わたしはひどく無個性な人間だと思う。上には上、下には下があるので見るなとよく言うし自分もそう思うのだが、時々差をまざまざと見せつけられてしまう瞬間がある。 わたしなんかは文字書きで絵描きで歌を歌うのが好きな人間だが、ここまででわかる通りとても一般的な少女ちゃんだ。対して満足できない文字を綴り、対して満足できない線を引き、対して満足できないメロディを紡ぐ。聞けない、見れないレベルではないため(驕りだ、周りの人間が優しいからだと言われればそれまでだが)とても浮くのだ。 き
日常に侵食してきている、と思う。それはおぞましく耐え切れずこっぱずかしくてひどく愚かで、きっとそれでも愛しい肉塊だ。まだまだ紡ぐ言葉が幼稚なので「大好き」だの「愛しい」だの、通り一遍のアイラビューなのだが。 本屋に、昔見ていた(今もちょこちょこ見るが)実況者のエッセイ本があった。CDコーナーに歌い手やVTubeのアルバムが並んでいた。駅前広告に平気な顔をして、アニメのキャラクターのような顔をして、彼ら彼女らがいた。 なんだか。なんだかなあ。文化の違いだ。時代が急速に