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ストーリーがあるエンタメ小説が書けない人は、日記を書くと良い

日記でストーリーがあるエンタメを書けるようになる理由


日記を書くと、小説が書けるようになると言われてます。なんとなく聞いたことがある人も多いと思います。

「日記を書くと、文章力をつけることができる」

日記を書くことが小説に役立つとする理由のほとんどは、これに尽きると思います。でも、それは日記の持つ力を一面だけしか見てません。

日記は文章力だけを鍛えるようで、じつはストーリーテリングを鍛えます。

日常は、ストーリーの集積そのものだからです。「単調な日々の営みなんかじゃなくて、すごい波瀾万丈を書かないと、小説にはならない」と思いがちですが、そんな必要はないんですね。

日記が小説書きにとって有用な点はまだあります。小説を書くスキル、ストーリーテリングと文章力のうち、ストーリーテリングができない人が一定数います。

彼らは空想の人物を設計して、想いを馳せるということができません。というか、たぶん興味がないんですね。

そんな人たちが興味があるのは、他ならぬ自分自身です。だから、日記は書くことができるし、その延長線上、私小説も書くことができます。

ストーリーテリングができない、フィクションをイチから創れない人も、日記を書くことで、ストーリーテリングができるようになるのです。

純度100パーセントのフィクションは存在しない

「私が書きたいのは、私小説ではなくてフィクションだ」という人もいると思います。心配しなくても大丈夫です。自分の話を書いた後に、人物の名前を変えてしまえばいいだけです。

そもそも、純度100パーセントのフィクションを書いている人間が何人いるのかな?と思います。ほとんどのフィクションには、作者のエゴが反映されてしまっているわけですね。

例えば、宮崎駿作品には、必ず宮崎駿の分身と、宮崎駿が好きなタイプの女性キャラが出てくると言われてます。気になる人は、岡田斗司夫さんのYouTubeとか観てみたら面白いと思います。

自分の日常のしょうもない姿を書けないと悩む人へ

「こんなこと書いて何になるんだということを、書かないといけない」と、哲学者の千葉雅也さんがツイートされていたことがあります。これはその通りだと思うんですよね。

小説っていうのは、本当は「こんなこと書いて何になるんだ」というものを書いた方がいいわけです。でも、私たちは「こんなこと」つまり「ちゃんとしてないもの」を書きたいと思えない。

なんでそうなるかというと、他人に認められたいからだと思うんです。だから「ちゃんとしたこと」を書きたい。書いたら他人に認められる「ちゃんとしたこと」が世の中にあると思っている。

でも、「ちゃんとしたこと」というのは、だいたいが他人のしょーもないパクリなんですよね。大勢が「ちゃんとしてる」と認めてる時点で、新しさも挑戦もないわけですよ。

たぶん千葉さんにも、こういうことが念頭にあったのではないか…。さすがにそこまではわからないですけど、「こんなの見せていいのかな?」と思うものを発表するのが、とても大切なんじゃないかなというのは、本当にその通りだと思います。

こういうことを聞くと、「えいやーと発表する勇気がある人がうらやましい…」と昔の私は思ってたんですけど、最近は考え方が変わりました。必要なのは勇気ではなくて、クズみたいな自分を見せるだらしなさというか、そういうのが必要なんじゃないかと思うわけです。

という感じで、私自身のリハビリがてら、文章を書いてみました。役に立つ方がいれば、とても嬉しいです。

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