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随筆(2020/8/21):万人の持つ世界観を焼き尽くしたいがために、真実を愛し綺麗事や常識を憎む人たち(2)主観と関係ない世界と、主観の制約を受けた世界観

2.世界観ではない方の世界

2.1.自然科学や数学に関する世界

世界は在る。
主観がなくても、他の人たちの主観が完全に消滅しても、自然科学も数学も、何一つ揺らぎはしないだろう。

実践面をすっ飛ばした主観が、自然科学や数学に対して、何らかの影響を及ぼしているという証拠、あるか?
「そんな影響は、ない」ということで、自然科学数学も、何ら問題なく説明出来るではないか。

量子力学における観測? 目が現象に影響を及ぼすとでも思っているのか? 目ビーム論者?
量子力学を真面目に考えると、素粒子と素粒子の相互作用のことを観測と呼んでも、概ね差し支えない訳だ(というか、これが量子力学における「観測」と言う語の究極的な意味合いのはずだ)し、これだと、目による観測なんか、特に要らないぞ?

数学が約束事(公理等)に基づくと言う話も、究極的には、主観の話は必要あるまい。
「もし〇〇が△△だったら、□□という帰結がもたらされる」
という話だぞ。ここに、何らかの主観が、入り込む余地、あるか?

2.2.人文学や社会科学に関する世界

さらには、人文学社会科学においても、主観の影響を捨象出来る分野は、かなりたくさんある。
例えば、主流経済学のかなりほとんどの部分は(そして意外にも、主観と親和性が高いとされている行動経済学のある種の部分は)主観を特に必要としない。
だったら、そういうところからは、主観による不要な説明は、極力抜いて行きたい。
そうして初めて、主観の影響を絞り込み、主観の影響があるジャンルの学問を適正に扱えるだろう。

そういう、主観による説明を不要とする限りにおいての、人文学社会科学の世界は、自然科学数学の世界と同じくらいには、「事実」に関する扱いが出来る、比較的指針の立つ世界だ。
もちろん、主観による実践や、主観による規約などは、語られなければならないので、そこは大きな宿題だ。
だが、「それを無視しても扱いの上では問題がない」のなら、無視した方が扱いやすい。
だって、無視しうるくらいなら、それは例外的な偶然と同じ程度の意味合いしかないんだもんな。
そこは、理論観測の間に、統計的に(p値とかに抵触するくらいの)ズレがあった時に、初めて考慮すればいい。そのくらいのものだ。

3.世界でない方の世界観

3.1.世界が、主観に理解された、狭い部分としての、世界観

さて。
改めて、行動主体に伴うなんかである「主観」と、主観に伴うなんかである「世界観」に注目したい。
主観に理解可能な世界は、様々な理由で、狭い。
主観に理解された、狭い部分としての世界を、この記事では「世界観」と呼ぶことにする。
(内なる世界観と外の世界を統合する、ハイデガーの「世界内存在」みたいな考え方もある。
それが妥当である場合もしばしばあるが、ここではそれは採らない。
どちらかと言うと、世界観世界ギャップの方に着目したいからだ)

世界観世界は、当然ズレがある。
下手すると、世界観は、実際の世界と、所々真逆の意味合いを示すことがある。
そんな世界観の人達は、社交も処世も、とてつもなく難しくなるだろう。
だって、やることなすこと、メチャクチャにしかならんもん。

そう言う時に、世界と世界観、どちらが優先されるべきか。
世界だろう。
それは、外にある現実なのだから。
泣いても笑ってもどうにもならないのだから。

しかし、何かを「やる」と言うことには、特に反応以上のことをやる場合には、どうしてもやる主体の世界観は欠かせなくなる。
何の知識も、査定もなしで、有り難みのあることが出来るかと言うと、それはただの反応か、よくてその+αに終始するだろう。
それは大事な地図だ。それ無くして航海したら、沈没しちゃいますよ。

そんな訳で、ふつうに考えたら、
「じゃあ、世界観の地図を、実際の世界の地理に合わせていくのが、正道であろう」
と言う発想に行き着く。

3.2.地図を地理に合わせていくのは、しばしば生存性の低い冒険である

さて、上の話には大きな問題点がある。
「地図を地理に合わせていくのは、しばしば生存性の低い冒険である」
と言うことだ。

冒険家タイプは、いる。
知的好奇心と、得られる資源と、知見と、知見をもたらしたと言う名声が大きい場合、彼らは大活躍する。

だが、そうでない場合、彼らは冒険をやめる。割りに合わないからだ。
冒険危険を冒すことだ。生存性が低い。最悪、死んで全部すってんてんになる。そう言うの、やりたくねえ。
事前情報勝利条件明らかでないような冒険など、ジリ貧だからバクチに全部ブッ込むのと、何ら変わらない。
虚無(シャバ)い綺麗事ばかり言うなよな。

忍者と極道_虚無い_シャバい_EY1QaZMUEAAxkwb

それにこれは、いくつかの場合、他人を巻き込むことだ。だったらますますやりたくねえよ。他人の分まで責任を負うつもりか。それは立派なことだが、本当に背負い切れるのか? そうでないなら最悪だぞ。

と、まあ、そう言う話をする人を、あなたは非難出来るだろうか。俺はやめときますよ。

3.3.それでも、なお、「万人に」地図の充実のための冒険を「余儀なくしたい」人たち

それでも、なお、「万人に」地図の充実のための冒険を、つまりは危険を冒すことを、「余儀なくしたい」人たち、いる。

胎界主_本物を求めて既存の穴から外へ飛び出す者がいる_29

彼らは賢い。
だったら、「愚かさを悪意で解釈してはならない」と言う理屈は、大幅に使えなくなる。彼らは、かなり高い確率で、「意図的に」、「悪意」でやっている。そう言う道理だ。
はっきり言うと、彼らの中に、何らかの攻撃的な動機があるのではないか。
制裁に関わる動機が。
あるいは、邪悪な動機が。

***

その動機とは何か。

「万人の持つ歪んだ世界観は、間違っている。
歪んだ世界観は、制裁に値する。
だから、本物の世界の正しさで、叩き潰したい」

これではないかと睨んでいる。

この動機、個人的には、かなり受け入れ難いところがある。
その話を、次回、していこうと思います。

(続く)(続いてしまった…)

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