随筆(2024/7/11):インナーチャイルドと俺
1.インナーチャイルドとしての自分
何か嫌なことがあると泣き喚き、不平不満があると当たり散らす。
そういう、インナーチャイルドが、俺の中にいる。
それは大事な機能だ。
これが麻痺すると、自分を損なうものから逃げられなくなり、防げなくもなり、気がついたらやがて摩耗しきって、何の意味もなく死んで、それっきりなのだから。
とはいえ、社会生活はたいてい踏ん張らねばならないことばかりで、そこでしょっちゅうケツまくるようなやつは、まあ信頼されない。
ケツをまくるな、とは口が裂けても言わない。俺の前職はIT派遣会社で、あの過酷な環境ではいずれ何らかの死か障害は確実だったし、俺は障害が出始めた時点でケツをまくったからだ。ケツをまくらなかったらふつうに死んでいたはずだ。
が、ともあれ、一旦逃げたら、ふつうその場にはいられなくなる。
ということで、インナーチャイルドの言うことはたいてい黙殺されるし、だからインナーチャイルドは他ならぬ自分自身から虐待される。
インナーチャイルドは当然泣き喚いて当たり散らす。
それを喰らうのは、当の俺だ。
2.インナーチャイルドをあやす親としての自分
ここしばらくの俺の営為の中において、
「インナーチャイルドのお世話」
の比重がかなり大きかった。
「そうだね。辛かったね。何とかしてあげるからね」
そして、何らかの形で、何とかしてきた。
この前の東京食べ歩き旅行も、インナーチャイルドの数年来泣き喚き当たり散らしながら訴えてきた悲願を果たしたものであった。
ちっぽけながら、本当にやりたいことをやることで、インナーチャイルドとしての俺は、どんどん静かになっていった。
余程不平不満ばかりだったし、やりたかったことがやれなかったんだな。俺。
今は大人しいものだ。本当にホッとした。
もちろん、嫌なものは嫌だし、出来てないことは出来てない。
そこの文句は常にあるものだ。
だからインナーチャイルドとしての俺がいなくなることは、きっと今後も死ぬまでないだろう。
だが、毎日毎日不平不満を言わなくなるようにはしたい。
インナーチャイルドの親としての俺は、心安らかに過ごしたい。
だから、インナーチャイルドの不平不満は、なるべく解消してやりたいと思っているし、なるべく誤魔化さずに解消してきたのだ。
たとえば、一番やりたいことを一度だけやり、二番目にやりたいことを何度もやらない、ということを。
(前者が解消されない限り、インナーチャイルドは納得しない。後者は全部その場しのぎでしかないので、究極的にはやるだけ無駄になってしまう)
ある意味で、これはごく薄っぺらいながらも育児だ。楽な訳が無い。
だが、果たす。
俺の中のインナーチャイルドが、満足して飽きて大人になるまで。
3.インナーチャイルドを脱しつつある大人としての自分
一方で。
俺はやりたいことをやり、悲願を果たしてきた。
意外なことに、いろんなことに飽きてきた。
以前はどうしてもやらずにはいられなかったことが、今はどうでもよくなってきている。
そして、仕事や節約や婚活など、必要なことに注力できるようになってきた。
ある意味で大人になってきた。
いろんなことに目を奪われて囚われていた、かつてのインナーチャイルドの俺を、鼻で笑ったりはしない。
それらの執着が解消されたから今自由なのであって、それらの執着は確かに当時は死活問題だったからだ。
それはそれとして、インナーチャイルドとしての俺は、少しずつ満たされた結果、今や泣き喚きも当たり散らしもやめつつある。
大人として、必要なことをやるのに忙しい。
今までやれてこなかったことだ。その分も取り返さねばならない。
きっとおそらく、しばらくはこうだ。
頑張ろうな。
4.いろいろな自分
インナーチャイルドの自分と、
インナーチャイルドのお世話をやっている親の自分と、
インナーチャイルドから脱していきつつある大人の自分、
心がみっつある。
もちろん全部自分だ。
インナーチャイルドに関する話は、ある程度は「自分の面倒を見る」ということだ。
ちゃんと、自分の面倒を、自分で見ような。
自分の面倒を見るのはもちろん面倒だが、他人は自分の面倒を見る謂れがないんだからな。
だから、自分で、頑張ろう。
(この話ここまで)