随筆(2021/7/26):「中身のない話」の意義
1.「中身のある話」は仕事に、「中身のない、しかしニーズのある話」は評価に効く
話題には、「中身のある話」と「中身のない、しかしニーズのある話」がある。
後者の話をバカにしている、「仕事はとても出来るが、それに見合うほどには評価されているように見えない人たち」は、かなりいます。
が、なんとこれから
「そういう認識だからこそ評価されないのだ」
という話をします。(マジかよ)
どういうことか?
「前者は仕事の話に、後者は評価の話に通じる」
ということです。
後者をしなかったら、そりゃあ評価にはつながりにくくて当然だろう。シンプル。そういう話です。
(なお「中身のない、ニーズもない話」については今回は扱いません)
2.評価されて査定がついて報酬が与えられるためには、人間扱いをされねばならない
仕事で成果をとてつもなくもたらしていたとしても、
「あいつは同じテーブルに座っている同じ人間ではない」
と思われると、評価はされず、査定はつかず、報酬はなくなる。
3.限界状況における「報酬がない場合」とは、何なら生死に直結する事態だ
「評価なんかされなくていい。査定も報酬も要らない」?
うーん。
下手すると、それ、ふつうに死にますよ。
ギリギリの限界状況の話をすると、
「干されない、逐われない、殺されない」
も大事な報酬だ。
(限界状況すぎないか)
(世界的歴史的にはかなりよくある話だったはずです)
(今の日本でも、職場でこれをされると、しばしばかなり厳しいことになるはずだ)
で、人間扱いされないと、何ならそこから真っ先に削られて、干/逐/殺をされる。
これ、論外なので、何としても避けねばならない。
4.共感のために、感覚的に分かる話をする。難しい中身があると、伝わりにくくなるし、感覚に訴えなくなる
そのために、
「あーあるあるある。ワカルワカル」
という話をすると、相手も心を開くようになるし、
「あいつは同じテーブルに座っている同じ人間に見える」
ということになっていく。
大事なのは、
「そういう共感をもたらすためには、感覚的に分かる話でなければならない」
ということだ。
こうなると、
「共有していない話題や、説明に時間と労力コストのかかる話題は、これに向かない」
ということが分かってくる。
残念ながら、中身のある話は、しばしばこれになってしまう。
情報量が多いと、相手の知らない情報を含んでいる「リスク」は増える。
共有している場合は話が早いだろうが、そうでない場合は、当然ながら話は遅くなるだろう。
つまりは、
「説明にそれなり時間や労力コストがかかってくる」
ということだ。
(自分で書いてて辛くなってきた)
5.評価や査定や報酬のために、人間扱いされるための下ごしらえはしなければならない
そういう、「ワカル」話を日々積み重ねること。
自分が「化物ではなく馬車馬でもなく人間である」という印象を形成していくこと。何なら自分で意図的に印象を管理していくこと。
これが、(直接の仕事ではないが)仕事を評価させる査定のための、大事なプロセスだ。
ここを疎かにしてはいけない、ということだ。
やっていきましょう。
6.(注意点A)集団作業の場合は「中身のある仕事の話」も「中身のないあるある話」も両方使い分けた方が良い
ちなみに、集団作業の際にも、雑談による「こいつは同じ人間である」という印象形成や印象管理は効いてきます。
が、そういう時は中身のある仕事の話もせずにはいられないというか、それがメインになると思います。
だから、忙しい時は「中身のある仕事の話」を、休み時間には「中身のないあるある話」をするのが良いのだと思いますね。
7.(注意点B)仕事をせずに査定にばかり働きかけると、査定は急落することがある
なお、これに絡んで、とても気を付けねばならないことがあります。
査定と雑談の密接な関係を見て取って、それはいいが裏読みして、仕事をせずに査定にばかり働きかけようとする雑談の人、時々います。
しかし、職場が最初から仕事で忙しい時に、こういう態度で過ごすと、しばしば
「何も寄与してないのに査定させようとしてやがる。
査定そのものは内容が、つまりは仕事の成果が要るんだよ。
内容抜きで報酬を得ようなどと、盗っ人猛々しさ極まる」
ってんで、却って査定が急落することがあるので、そこは本当に要注意です。
(まあ、傍目から見たら、そんな人の心証は、そりゃあ悪いわな)
そこも含めて、やっていきましょう。
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