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随筆(2020/6/14):基礎を固める「ための」動機作り(1)基礎固めにかかわる問題

1.基礎固めの有難み

勉強でも(今回の主題ではないが教育でも)大事な話になってくるんですが、
「基礎を固める」
という話を好む人、かなりいるじゃないですか。

何で
「基礎を固める」
ということをやりたいのかというと、もちろんその方が長期的に見て
「何でも出来るようになる」
し、それをしていないと
「いつか伸び悩んで、何かにつけて出来ないことに悩まされるようになり、腹が立つ」
からです。
出来るようになったやつは出来るし、そうでないやつは出来ない。
こればかりは、泣いても笑っても、直ちには変えられない。
だから、確かに、基礎固め、猛烈に大事なことだ。

2.勉強の内容の基礎を固めるために、勉強の手段にして土台である意志力や努力(や習慣)のことを考えねばならない

でも、ここには重大な罠があります。
勉強とは、人のやることです。たいていは、それは面倒なタスクであり、だから短期的な意志力中期的な努力長期的な習慣でやるものです。
つまり? 意志力や努力がへし折れたら、面倒なタスクは出来まい。
特に、基礎は、たいていは面倒で、パッと見に魅力がないやつです。やりたがる人はあまりいない。

やりたがる人はいいんですよ。もうそういう基礎に魅力を感じるフェーズに入っているんだから。
やりたがらない多くの人を、やりたがる人にするには、どうするか。ということが、ここで大きな問題になってきます。
これをすっ飛ばして、
「いいから基礎を固めろ」
なんて言っても、飽きるし投げ出しますよ。そりゃあ。

3.習慣作りのキャズム(溝)を越えるのには有用であるが、その後になったら要らなくなるものとしての、意志力や努力

いったん、勉強の内容の基礎を固められるようになったとする。
そうなると、小賢しい手段であり、その実、勉強というプロセスそのものの土台でもある、意志力なり努力なりの話は、どんどんすっ飛ばされていく。
最終的に、意志力も努力も軽視されるんだから、勉強なんか出来なくなる。どんどんと学力は落ちていき、再浮上出来なくなる。
つまりは、基礎を固めるだけでは足りない。意志力や努力の枯渇は止められない。
では、どうするか。

今からするのは、今まで意図的にして来なかった、習慣の話です。
習慣を身に着けるのに、意志力や努力が要ることがあります。しかし、習慣がいったん身に着いたら、意志力や努力はそれほど要らなくなります。

そういう意味では、習慣づけを重視する勉強法には、かなり大きな意義があります。
ふつう、誰しも意志力や努力を、高出力しかも連続で、出しっぱなしにしたりは出来ないんだから。
それをやると、行動にかかわる神経伝達物質の回路は、いつかボロボロになりますよ。(今の私がそうだ)

平たく言うと、意志力努力は、習慣ないところに作る。というキャズム(溝)を越えるのには有用である。
が、その後になったら、比較的「要らなくなる」。そういう性質のものです。

(注:
本当はキャズム理論「最先端の人の間で流行ろうが、街中で流行するにはキャズム(溝)がある」という話なのです。
が、これに限らず、何につけても、キャズム(溝)というものはあります。
それを何らかの方法で超えないと、あるところで何かがうまくいっても、そこの影響下にあるところに、その何かの影響があまり効いて来ない。
という話は、かなり普遍性のある話です。
なお、ヘッダと下の図は「本来の意味での」キャズム理論の話です。
この記事では、キャズムの話をしたいのであって、「本来の意味での」キャズム理論の話は別に興味がありません。ご注意ください

4.でも、習慣に頼るにせよ、最初の種火として、意志力や努力は、やはり要る

そんな訳で。
意志力努力連発出来ない。
習慣頼る。というのは、長期的にはかなりうまいやり方だ。

だが、そもそも、特に面倒なタスクに関する習慣づけは、ある程度のまとまった意志力や努力が大きなポイントとなる。
「やりたくねえ」と思われたら、それはどんなにしつけても、まず身に着くことはない。
つまり? 結局、意志力や努力の話は、初期段階でどうしても避けがたい。

じゃあ、どうすれば面倒なタスクへの意志力や努力が湧いてくるのか?

(続く)

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