随筆(2020/10/4):発達障害者には『的外れでも死なない』のマインドがとても大事(7.今までの話はいったい何だったんだ、という話)
4.そもそも定型発達者が常に定型発達者の会話モードであるとは限らない
さて、元はと言えば、定型発達者の母が、作業中の発達障害者(俺)に、だいたい15-16時頃に、
「お茶とお菓子は各自食べたい時に食べればいいよ」
と言いに来たことから話が始まったのでした(という話のために、要は余談で6日も費やすの、どうなっとるんだお前)。
定型発達者がこれを言う場合、
「母はおやつのお茶会をしたかったけど、遠慮する能力のある定型発達者なので、俺の作業を見たから、遠慮した」
という可能性が、かなりある。とこちらは踏んだ訳です。
なので、
「もし母が、遠慮しているが本当はお茶会をやりたいような雰囲気を見せたなら、遠慮していようがあえてお茶会を承ろう」
という心構えで、台所にやって来たのでした。
***
台所に行ったら、丁度母がいたので、それとなく訊いてみたんですよ。
「どうしましょう。お袋、お茶、ご一緒します?」
すると、母はポカーンとした顔で、首を横に振りました。
ありゃ?
「ううん。さっき、『お茶とお菓子は各自食べたい時に食べればいいよ』と言ったじゃない。だから、好きな時に食べればいいんだよ」
え? え? え?
どうも様子がおかしいぞ。
「あのう、お袋は、おやつなのでお茶会にしようとして、俺が作業していたから、遠慮していたのではないのですか?」
「いや、そうじゃなくて…」
なーんだ。違ったんじゃん。
バーカ! 俺バーカバーカ!!!
***
話を聞くと、母は昼寝して、さっきまで寝てたんですよ。
で、自分でおやつを4分の1(我が家は4人家族です)食べたんですね。
ということで、他の3人にも取り分がある。それはやはり自分で食えばいい。
という話を単にしに来ただけだということのようでした。
何…その…
俺も、つい一人で食ってしまって、気が付いて家族の分を何とか残して、気まずい顔で家族に伝えるみたいなズルいムーブ、よくやりますが…
要は、そういうこと…???
***
ようやく母も、俺の不自然な反応に、何か思い至ったらしく、
「あーそうか! ごめんごめん! 『一緒におやつ食べてお茶しよう』っての、よく土日のこの時間に私が言ってるね! だからか! 寝起きでぼんやりしてて自分1人で食べちゃった!」
と笑っていました。
確かに、寝起きや、疲れている時は、しばしば言葉足らずになったり、配慮している余裕がなくなっていたりすることがある。
非常に奇妙な話だが、そもそも定型発達者が常に定型発達者の会話モードであるとは限らない。
むしろ、発達障害者(俺)が言いそうなことを言うこともある。
…
わ、罠~~~~~!!! (自分で自縄自縛しただけだろバカタレ)
5.失敗しても、取り返しがつかない、とは限らない。しばしば、失敗は、罰ではなく、笑い話で済まされる。有難い話だ
(注:グロ漫画描写注意)
私はだいぶ落ち込んだのですね。
定型発達者のことを10%程度には理解できたかなと思ったら、それは生半可な生悟りでしかなく、本当はそんなものは1%に過ぎなかった。
俺はまだ定型発達者との付き合いを何も分かっていないに等しい。単なる小賢しい阿呆だ。
小賢しい阿呆という生き物、小賢しさも阿呆さ加減も、鼻につくくらい、キツい。
***
昨日までの6日分の文章は、自分のそういう恥をさらけ出すために、あえて文字列化して残しています。
これ、辛かったですよ。自分のきったねえ泥のような臓腑を、自分で掻っ切って外気に晒して、腐臭と便臭に耐えるような苦行でした。(そんなものを他人にさらけ出すなよな)
泥が。泥が泥が泥が。(京極夏彦『嗤う伊右衛門』)
6日かけてみじん切りにした臓腑の如き真実が、真(true)の情報として通用する状況は、実際には1%もないだろう。
99%は偽(false)か、まだ確認されてないから分からない未知(unknown)か、そもそも話の前提が成り立たない適用不可(not applicable)か、そのいずれかなのだから。
それを、書いている時点で、100%、百も承知で、書いたのだ。
「1%しか正しくない、呪われた呪術的思考」
として。
今は否定出来るだけの材料すら持たない(愚劣なことだ)が、いつかそれが手に入ったら、こんなものは直ちに否定されるだろう。
その段になって、
「は??? 私は最初からそんなことは言っておりませぬが~~~???」
と開き直るやつ、そんなことをやるようなら、反省も成長もしない意図をここまで明け透けに明示しているんだから、固まってないセメントの中にセメントマッチモードで蹴飛ばすしかない。
そういう真似だけはさせないからな。特に、ほかならぬ自分が、そういう思考停止をするのなら。
この手の、迷惑な問題があり、解決出来るし、要請もされているのに、しないやつ、見ていて許せるか? それほど俺は寛容になれない。
特に、自分がそういうのだったら、耐え難さの極みじゃん。他人なら背を向ければいいが、自分からは逃げられないんだから。
そして、自分のケツは自分で拭かねばならない。
臓物(ハラワタ)をぶちまけろ。天日に晒せ。
***
が、母の笑い声を聞いてて、ちょっと思い直しました。
(よく見たら、要はこれ、『笑い話』で終わることが麗しい、そういう流れやんけ)
発達障害者は、しばしば、
「失敗したら、場合によっては罰を食らい、場合によってはサドンデスで再起不能になる。
それに常にバッチバチに備える。
どうせ備えても、他人の意図に対する、自分の解像度の低さのため、1%しか通用しないが、0%よりゃマシだ」
という考え方をする。
いや、確かに、失敗したら、場合によっては罰を食らい、場合によってはサドンデスで再起不能になるよ。
でも、そうでなかった場合の心構えも、ちゃんとしとけよ。という話だ。
失敗しても、取り返しがつかない、とは限らない。
しばしば、失敗は、罰ではなく、笑い話で済まされる。
要するに、罰されない。再起不能ではない。
じゃあ、実に、有難い話じゃねえか。
そこでポカーンとしてんじゃねえ。ぎょっとしてんじゃねえ。訝しんでんじゃねえ。凹んでんじゃねえ。
良かったね。めでたしめでたし。そういうオチに向けて、会話を着地させてキレイに終わらせるんだよ。
定型発達者のやるような、流動的な、しかし疲れる前になんか着地点にたどりつく、そういうコミュニケーションを、しろ。
そんな訳で、定型発達者が10%分かったような顔をしているやつが、1%しか分かっていなかったことを思い知り、しかも2%は分かった。
という、実に有難い話でしたね。
(そんな終わり方でいいのか!?)
(しかもまた図に乗ってやがんなテメエ)
***
そんな訳で、的外れでも、死なない。
笑い話で終わらせてくれた母には、感謝しかないですよ。
さて、俺も、ちゃんと着地点のある、オチている笑い話を、研鑽していこうかな。
そういうの、感性レベルで分かってないんで、苦手なんだけど、値打ちだけでも分かって来たからには、これがこれからの課題だ。
やっていきましょう。
(いじょうです)
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