随筆(2022/10/18):アノミー的煩悩とガウタマ・シッダールタ(という思いつき)_1.都市商人と煩悩と仏教のかかわり一考
1.都市商人と煩悩と仏教のかかわり一考
1.1.インドでは仏教の支持層は都市の裕福な商人だった
(ヘッダは『Wikipedia:インドの仏教』からのものです。出典として明記します。問題があれば削除します。)
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さて、今日は何か閃いてしまった人特有の思い付きの話をします(そんな枕で話を始めるな)。
皆様は仏教の由来が広義のインドであることはご存知かもしれません。
そして、今やインドの主要宗教はヒンドゥー教であり、仏教の存在感は相対的に見ればかなり小さくなっている、ということも。
なぜ仏教はインドで生まれ、そして衰退したのか?
という疑問があるかもしれません。
NHK高校講座テレビ学習メモ2015年世界史第4回古代インドのオンライン公開テキスト(監修・執筆:水島司)に、その辺の事情が簡単に記されています。
(NHK高校講座テレビ学習メモトップページからのリンクがないので直接リンクしておりますが、「仏教 都市 裕福な商人」でGoogle検索しても出ます。)
https://www.nhk.or.jp/kokokoza/library/tv/sekaishi/archive/2015sekaishi_04.pdf
インドにはかなり長い間、ざっくりと四つの身分層、ヴァルナがありました。
第一身分、司祭階級(ブラフミン。いわゆるバラモン)。
第二身分、戦士階級(クシャトリヤ)。
第三身分、商工市民階級(ヴァイシャ)。
第四身分、苦役労働者階級(シュードラ)。
(ヴァルナについては、ポルトガル語で言うところの「カースト(血統)」の方が人口に膾炙しているかもしれません。
ただしカーストはヴァルナとジャーティ(血縁地縁職縁共同体)の混同による、インド外からの解釈に基づく、後から生じてきた概念です。
この三つの概念は関連しあうものの、厳密には全部違います。)
日本人にとってはあまりピンと来ないかもしれませんが、インドにおいては、仏教の支持層は、まずは都市部の、第三身分・商工市民階級(ヴァイシャ)、特に裕福な商人だったというのです。
そうだったのか…(知らなかったそんなの…)
1.2.都市商人に特に訴えかける仏教の優位性とは何か
さて、ここから少しずつ思いつきの話に踏み込んでいきます。
都市の裕福な商人の悩みとは何か、考えてみましょう。
とりあえずは、
「食い詰めたくない」
「生計が回るほど儲かりたい」
「何なら、ほしいものが手に入るほどの、やりたいことがやれるほどの金がほしい」
「あいつは手に入れられているしやれているのに、自分が手に入れられていない、やれていないのは、屈辱極まる」
「誰しも手に入れていない、やれていないことがある。たとえば不死身や永遠の命がほしい。どうもできないようなのだ。身を焼かんばかりの絶望がある」
「死んだらどうなる?
偉そうな第一身分・司祭階級(ブラフミン)の説明はもちろんあるが、どうにも不安はなくならない。
体験してないから、本当のところは分からない。
そんな不確かな恐ろしい死後の世界を、果たして心安らかに迎えられるのか?」
とまあ、この辺でしょう。
即ち、生存や生計や欲望、嫉妬や絶望、不安や、それらに自分のこころが振り回されることの悩みがあったはずです。
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なぜそう言えるのか。
上の話は、実は仏教で言う三毒、「貪(貪る)」「瞋(怒る)」「痴(分からない)」の煩悩の話に通じるものです。
というより、仏教は、これらが現に切実な問題としてそこにあったからこそ、煩悩の実践的な解決手段を提供しようとして、それを標榜もした訳です。
基本的には
「苦しみは煩悩(こころの認知バイアス)が原因でもたらされる結果であり、そうした現実や真実とかけ離れた歪んだ馬鹿げた認知は、念(気づき)によって止まり、般若(智慧)によっては根源から絶することができる」
という姿勢です。
貪らず、むしろ布施をする。怒らず、むしろ慈をやる。そして分からないなら真の智慧を得て、これをもって何事をもやっていく。
煩悩を前にして、あえて
「この智慧に鑑みれば、煩悩、実はバカバカしいことである」
と納得し、煩悩と逆のことをすれば、煩悩の果てしない深みに嵌まることを、根本から絶つことができる。
という、理屈に合う、しかも実践可能で効果もありそうな原因療法の案を提示した訳です。
(こんなのは上っ面の理解であり、僧侶や仏教学者の方々に言わせると「そういうことではない」と言われるかもしれません。その時はそのように訂正いたします)
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こうしてみると、「都市の裕福な商人の悩みに、仏教は取り組み、だから支持もされた」という話は、理由としては納得は行きやすいところです。
都市の裕福な商人は、それだけ煩悩も切実であったことでしょう。
商売がうまく言ってたら、貪りということはかなりやりやすい状況にある訳です。
それに、豪勢さで見栄を張って権威を得るという話は、金持ちの間ではよくあることです。これに敗れて嫉妬して腹を立てる状況も、金持ちならば多々あったでしょう。
場合によっては、教養や連想能力や想像力があれば、得体のしれない死の恐怖がより途方もなく感じられることもあったかもしれません(文学青年みたいなこと言ってますが)。
そんな訳で、「当時のインドにおける、都市の裕福な商人が悩まされていた、煩悩の解消」というニーズに応えるべく、仏教は生じた、という側面があるのではないか。
まず、そのような思いつきがあった訳です。
次回はこれを、もう少し、自分のこころの実存ではなく、社会から受けるこころの影響に着目して見てみたいと思います。
ある種、昔の社会学的な話にもなります。意外な話ですが、説明に援用できそうなので、試みてみます。乞うご期待。
(続く)
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