随筆(2021/6/16):一見、対人倫理と呼びにくいが、やはり対人倫理である、いくつかの倫理について
1.対人倫理と呼びにくい、ある種の倫理が存在しているように見える
前々から何となく思っていたことがあって。
ジョナサン・ハイトという道徳心理学者が、倫理的価値観のカタログの話をしていて、「ケア(世話)/危害」「公正/欺瞞」「権威/転覆」「(集団)忠誠/背信」「自由/抑圧」あと仮のものとして「誠実」「所有」「非効率・浪費」「自制」などがあるんです。
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ここで、後者三つだけ、奇妙な印象を受けたんです。
前者七つは「他人に脅かされることがあり、対人的な要素がある」のですが、後者三つは「他人にとやかく言われる筋合いはない」んですよ。ふつうに考えると。
「実践の際に考慮される価値」という意味では、確かにこれら三つは倫理に違いないのです。
が、これが対人倫理であるという納得は、なかなか難しい。だってふつう誰も脅かしていないので。個人のものなので。
2.リソースが豊かな場の、個人主義の倫理としての「所有(特に私有)」「非効率・浪費」「自制」を、対人倫理として見たとき
所有(特に私有)と非効率・浪費と自制については、まずは個人のもので、迷惑もへったくれもないように見える。
強いて対人倫理として捉えるとすれば、
「「おまえのものはおれのもの、おれのものはおれのもの」をするやつが目の前にいると、迷惑」
とか(私有に関する話)、
「仲間内で利用する、限られた場のリソースを、安易に占有して、しゃぶり尽くして枯渇させるやつが目の前にいると、迷惑」
とか(これは共有に関する話だが、分かりやすいので一応書く)、
「仲間内で利用する、限られた場のリソースを、安易に浪費するやつが目の前にいると、迷惑」
とか(非効率・浪費)、
「我慢しないで場のリソースを消費したり、衝動のままなんかしてしまうやつが目の前にいると、迷惑」
とか(自制)、そういう理屈が要るんです。
これらは、場のリソースが乏しく、皆で大事に保たせるようにやりくりしていく場合は、「他人に迷惑をかけないように、他人に脅かされないように」という文脈に乗って来る。
ですが、場のリソースがかなり多い場合にはあんまりピンと来ない話でしょう。これを意識しなければならないシチュエーションが、地方都市の市民だとあまりない。個人主義的に生きている。
3.「ケア(世話)/危害」「公正/欺瞞」「権威/転覆」「(集団)忠誠/背信」「自由/抑圧」「誠実」は、場のリソースや個人主義と関係なく、対人倫理として在る
前者七つは、場のリソースが豊かで、だからこそ個人主義をやっても困らない、メリットがデメリットを圧倒する場合であっても、やはり意味がある。
これらは、リソースが豊かだろうが、個人主義だろうが、とにかく社交や処世をやる上で、どうしても他人に迷惑がかかるし、他人を脅かす。そういう案件についての倫理だ。
誰かへの危害も、搾取的な欺瞞も、生きていく立ち位置の転覆も、場への背信も、抑圧も、不誠実も、これは必ず誰かに迷惑がかかり、誰かを脅かすものだ。
これらの話で、「誰かに迷惑がかからない、誰も脅かさない、〇〇」というのが成り立つだろうか。成り立たないんですよね。
「〇〇」に「所有」や「非効率・浪費」や「自制」が入っている時は、基本的には個人のリソースの話なので、成り立つ時と成り立たない時があるが、前者六つはこれは一貫して成り立たない。そもそも字義的な矛盾と言ってもいい。
公正/欺瞞はリソースが絡むが、肝心なのは「自分がリソースを扱う」か、「社交や処世の一環としてリソースを扱うか」の違いであり、公正/欺瞞は後者だ。
4.「所有」のうち、「共有」と「私有」、それぞれの場合
ちなみに、所有には共有と私有があるので、共同体主義でも個人主義でも、どちらでも成り立ちうる話だ。
共有は場の参加者の部分か全部の話だが、私有は個人的な話だからだ。
それぞれの場合について考えたい。
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共有の話は既にした。
「仲間内で利用する、限られた場のリソースを、安易に占有して、しゃぶり尽くして枯渇させるやつが目の前にいると、迷惑」
というやつだ。
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ちなみに、狩猟採集民の離散集合するバンド社会では、かつては共同体主義が広範に採用されていたから、個人主義的な私有はそれ自体が共有を破るものということで、否定的に見られていたことが多々あった。
所有の在り方そのものに、かつては善し悪しの話があった訳だ(もちろん、善し悪しである時点で、これも「このようにするのが推奨される」「こうすることは忌避される」という倫理としてはたらく訳です)。
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私有の話も既にした。
非効率・浪費や自制は、「そういうのやめろ」「ちゃんとしろ」と言われることがあるが、やめたりやったりするのは自分だし、だからこれを脅かすことは極めて困難だ。自分が「できないのでしない」と開き直った時点で、脅かす側は詰みだ。
で、私有は個人的な行為だが、誰かに脅かされることがある。ここは、所有と、非効率・浪費や自制を別つ、大きなポイントだ。
『ドラえもん』のジャイアンを想像して欲しい。ジャイアンが「おまえのものはおれのもの、おれのものはおれのもの」と言い出して、実力に訴えて占有を始めたら、そりゃあ迷惑に決まってる。
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所有は、共有と私有、両方の場合で、「迷惑がかかる」「脅かされる」の話がありうる。
リソースが豊かなら、共同体主義は個人主義に移行する余地があるし、その場合は共有より私有の方がメインになる。
だが、そうなったとしても、対人倫理としての話は、それはそれで避けられない。という話だ。
5.「所有」も「非効率・浪費」も「自制」も、元々は対人倫理だったし、「所有」については実は今でもそうだ
ということで、「所有」も「非効率・浪費」も「自制」も、元々は対人倫理だった。
個人主義になって、これらの倫理において、対人倫理としての意義は見失われる(だからわざわざこんな文章を書かねばならない)が、それらは依然として対人倫理であることに変わりはない。
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「非効率・浪費」と「自制」は、本当に個人のやることなので、極めて脅かされにくい。
だから、対人倫理として問われることは、もう少なくなった。
だが、場にリソースが乏しくなったら、やはり対人倫理として問われる余地は出て来る。
そこは、そうなったら、備えねばならない。
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「所有」については、ジャイアンみたいなやつに脅かされることが、実は今でもありうる。
「場の共有を脅かさない」あるいは「他人の私有を脅かさない」という話は、対人倫理として、常にある。
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このようにして、一見、「誰かに迷惑がかかる」「誰かに脅かされる」対人倫理と呼びにくい倫理についても、実は対人倫理である。ということが見えて来る。
こと倫理においては、「対人ではない倫理」というのは、
「事情が変わって、場のリソースが豊かになって、個人主義が成り立って、他人に迷惑をかけることも、脅かされることもなくなったので、対人としては落としどころを強いるものではなくなった」
という、付帯的な形で初めて存在し得る。
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倫理はまず対人倫理なのであって、個人的な行動指針から対人倫理が生えて来るわけではない。
そんなものは、場のリソースが豊かになって個人主義になった時の、私有か非効率・浪費や自制くらいしかない。
それらから他の対人倫理を生やすの、実際の自然界や人類の歴史と逆パターンであり、だから実態に合わないデタラメなんだよな。
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「倫理はまず対人倫理で、対人ではないように見える倫理は、場が豊かになり個人主義の余地が出て来たという状況の変化で、対人倫理から生えて来たものに過ぎない」
ここは、気を付けないと見えない、大事なところだ。頭の片隅にでも置いておきましょう。
(いじょうです。ご清聴ありがとうございました)