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随筆(2022/10/20):アノミー的煩悩とガウタマ・シッダールタ(という思いつき)_3.なぜインドでは仏教は衰退したのか一考

3.なぜインドでは仏教は衰退したのか一考

3.1.仏教のやり方は煩悩に対する「かなり意識の高い」原因療法であろう

さて、仏教は、当時のインドの、社会規範の制約の緩み、アノミーによる諸問題をどうにかするためのものであり、原因療法であることを標榜するものとして見ることも可能なのでした。

煩悩、よく見れば、だいぶばかばかしい。
そういう気づきを得て、逆のことをやれば、煩悩の中で泥沼のように足掻くことはなくなる。
理屈は確かに正しいのです。

ただし、ふつうは
「そんなこと言われても、ばかばかしくても現に苦しいのは確かである。
それに、貪りとまでは言わなくても、欲求充足は短期的には確かに快楽をもたらすし、それが浮世の苦しみをしのいでやりすごす武器でもある。
現に苦しいこと自体も、欲求充足も、「よく見れば」ばかばかしく見えて、そんなものはどうでもよくなる?
よく見てられるほど暇じゃないんだよな。
自分たちは自分たちの生活をかなぐり捨てて修行僧をやりたい訳じゃないんだから。
それは確かに大したことではあろうが、生活が大成してからにしたいんだよな」
という話が、どうしたってある訳です。

仏教等とは別に、仏教登場時、旧来のバラモン教の最先端であったウパニシャッド哲学というのがあるのです。
ウパニシャッド哲学解脱重視のライフスタイルと、旧来のバラモン教生活重視のライフスタイル相克があり、それがそのうち折衷案としてアーシュラマ(四住期)の考え方として結実します。
「子供の頃は勉強しろ、大人になったら世俗をやれ、目途がついたら隠棲して修行せよ、最終的には乞食遊行せよ」というやつです。
つまりは、世俗をやった「後で」修行、という考え方になります。

仏教は、上記のライフスタイルが人口に膾炙した後になってみると、世俗から隠棲への促進としては強力でしょうが、強力過ぎて有無を言わさないものでもあり、
「まだ自分は煩悩に塗れようが世俗をやらなきゃならないんだよ」
という時には、生活における実践としては、実は困る、とも言えます。

3.2.というよりその前にまず即効性を期待して「煩悩は現世利益で対症療法する」のがありがちな流れであろう

そして、悠長な隠棲と修行「の前に」世俗をやる場合、悠長な原因療法など、やっている場合ではありません。
「まずは」世俗生活「を」全うするためには、もちろん世俗をやらねばなりません。それは煩悩に塗れるということに極めて近づく訳です。

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そんな中、求められる宗教的な救いとは
「欲しい? それ、ばかばかしくない? やめなさい」
という、欲求充足をメタ的に解消しようとする、つまりは欲求を充足させてくれない原因療法ではなく、
「これは即効性を期待した現世利益の手法である。欲求を充足するパワーがあると思ってほしい。欲求充足、したいですよね」
という対症療法に、どうしたって傾きます。

***

そりゃそうだ。
ニーズにはタイミングというものがある。
満たされずに放置されたニーズはたいてい、強迫観念的執着になる。
やることに思考を支配されて、やることが自己目的化して、やってもやっても満足しない。そういうものになります。
(たとえば性欲は、かなり多くの場合、意図通りに満たされないし、満たされたとしても危険であるか、おそろしく高くつき、完全に満足するには程遠いものなので、そういう場合はどんどんこじれていくものです。
そういう成り行き全般の、より一般的な話をしています)

強迫観念的なニーズについてなら、それはもちろん仏教的な原因療法は圧倒的に正しい。
だが、そもそも、強迫観念的になる「前に」何とかしたいですよね。

そして、バラモン教現世利益的な側面を圧倒的に強化し、ヒンドゥー教となりました。

3.3.現世利益と経済的豊かさと産業社会

今のインドでは、ヒンドゥー教徒が圧倒的に多く、仏教徒はあまりいません。
もちろん仏教の意義が失われた訳ではないのですが、多くの人々には世俗生活があるのでしょう。

***

これを我々はとやかく言えないのです。
かつては社会は貧しく、世俗生活そのものが苦しかったのだから。
産業社会以前に戻れるか? 無理でしょ?
経済的豊かさによる欲求充足は、煩悩の解消とは別に、世俗生活の苦しさを解決するもう一つの手段です。
それを求めるな、とは到底言えない。

***

産業社会はこれを、神の御手に比べたら有難味に乏しい、ちっぽけな人類の手で行って、爆発的にうまくいったのです。
が、それまでは手工業でできることは限られていましたし、人類が手ずから出来ることは、生活苦を吹き飛ばせるほど大したものではありませんでした。

だから、より有難味のある超自然的な何か、神の御手に頼る発想そのものは、まあ分かるのです。
人類の手の延長上でやれ? なぜ? みすぼらしい成果しか出せないことは今までうんざりするほど実証されてきているのに?
いつかは生活苦を吹き飛ばせるほどの大した成果が出る? 現になかったではないか。夢物語を口にするんじゃあない。
という、産業社会以前の人々の話を、タイムスリップした我々が、口先だけで覆せるようには到底思えません。(稼働する機械と生産された大量の製品を持ってくれば別ですが)

***

たまには立ち止まって、
「自分は欲求充足をしているが、もしや強迫観念的に煩悩に囚われているのではないか。だとしたらそれはばかばかしいのではないか。やめたら?」
と思うことは、強迫観念的な煩悩で苦しんでいる場合には効果があります。
でも、我々は現世利益欲求充足そのものは別にやめる謂れはない。
そして、その実現のために、現世利益的な宗教をやるか、あるいは人の手の延長としての産業社会をやるか、という話は避けられません。

***

自分の今とらわれていることが、単なる欲求充足か、強迫観念的な煩悩か、どちら側かは見極めましょう。

前者なら、産業社会の豊かさをバックボーンに、何事かをする。
自分が産業社会の豊かさによる膨大なリソースを使えるかどうかは別として、使えたら使って、実践を貫徹できたら、そっちの方がいいに決まってる。
個々人の欲求は、人的環境によって決まるところがかなりあります。(というのがデュルケーム『自殺論』の示唆するところだったのでした)
そして、欲求の実現可能性も、やはり人的環境によって決まるところが大きいのです。

そうしたリソースが使えないか、強迫観念的な煩悩が問題であるなら、後者の話になります。
強迫観念的な煩悩は、快楽をもたらす以上に、苦しみをもたらします。
それはばかげているので、ばかげていると心底思いましょう。やってられないので、こだわらないようにしましょう。距離を置きましょう。

それは、本義とはだいぶ離れるが、ひどく小さい解脱とも言える。
気は大いに楽になる。
いいぞ。
やっていきましょう。

そんなところですね。

(この話ここでおしまい)

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