随筆(2021/5/11):対人欲求は、基本エゴイスティックなものである(3.対人欲求のエゴイスティックさと『対人倫理2.0』の話(総括))
2.対人欲求は、基本エゴイスティックなものであり、対人倫理がそのままの形でビルトインされてなどいない
2.10.『対人倫理1.0』のネガである自由意志が、その後ゼロから構築しなければならない、『対人倫理2.0』
ちなみに、今までの対人倫理、いわば『対人倫理1.0』には、
「他人にも自由意志があるから、自由にせよ」
という話はそもそもなかった。
『対人倫理1.0』に対するネガである自由意志を、『対人倫理1.0』がビルトインしている訳がない。
つまり、「他人にも自由意志があるから、自由にせよ」とか、それ以後の、『対人倫理2.0』とでも呼ぶべきものが、あるということだ。
「欲望や対人欲求と、否定したい『対人倫理1.0』や否定してくる誰かとを、嫌だろうが何だろうが、擦り合わせなければならない。
そして、存在しなかった『対人倫理2.0』を、ゼロから構築しなければならない」
これが、状況的にはより正確な記述となる。
ゼロから構築しなければならないから、そりゃあ大変に決まってる。
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前々回の記事で書いた、道徳心理学者であるジョナサン・ハイトの著書『社会はなぜ左と右にわかれるのか』で書かれたいくつかの倫理のうち、対人倫理についてのみ考え直す。
これで言うと、
「他者の」『自由/抑圧』(さっき言ってた「他人にも自由意志があるから、自由にせよ」)や、
二人以上の間の『誠実』が、
『対人倫理2.0』に該当する。
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いわゆる自己責任や応答責任は、本来は『誠実』の一番最初の形である。
自分が他人にとって、どう見えているか、実は分かったもんじゃない。
そうである以上、自分の行為や発言には、他人からの疑いの余地が極力少ないように、整えなければならない。
出来れば、それは、関係ない他人に丸投げすることのない、自己完結的なものであった方が良い。
自分のやったことの結果の落とし前は、自分で付けられるようであった方が良い。
そこを破ると、関係ないのに、他人に迷惑がかかるからだ。
まして、
「これは自分が自分でやったことなのだ。文句があるなら自分に言え。受けて立つ」
ではなく
「おれじゃない、あいつがやった、しらない、すんだこと」
などということをやったら、そんなやつはその後何も信頼されなくなるだろう。
これは、「言った、言わない」という話で揉めるポイントの、正にど真ん中だ。
そこら辺に気を付ける営みこそが、自己責任や応答責任ということだ。
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他者の『自由/抑圧』や、二人以上の間の『誠実』を前提とした場合、
取引先との『公正/欺瞞』や、
場における『(集団)忠誠/背信』や『権威/転覆』や、
先輩や養育者としての『ケア/危害』も、
『対人倫理2.0』であると言える。
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逆に、これら二つを前提としない『公正/欺瞞』や『(集団)忠誠/背信』や『権威/転覆』や『ケア/危害』や、自分の『自由/抑圧』は、別に『対人倫理2.0』ではない。
これらは、ただの『対人倫理1.0』だ。
それはそれで守るべきものだけど、比重はだいぶ軽くなってきている。
『対人倫理2.0』にこそ、注意を払わねばならない。
2.11.対人倫理2.0を構築するのも、貫徹するのも、結構大変だ
とはいえそうして練り上がった『対人倫理2.0』は、
「守らないと失敗パターンになるが、守っても成功パターンにならない」
ものであることが多い。
だから、どうしても、
「守ると成功パターンになる」
ものに比べて、あまり守られないように見える。
これは当たり前で、目に見える有り難みがないからだ。
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『対人倫理2.0』は、ある程度対人欲求の実践に馴れてきたら、とてつもなく便利なものだ。
だが、これは対人欲求をやっていく上で失敗して揉めたからこそ、その「後」で生じたものだ。
最初からうまくやるのにはほとんど効き目がない。
特に、対人欲求をやっていこうとしているが、目の前の相手(しばしばそれはこの自分である)の都合についての回路が備わっていない人がいたとして。
そういう人を前にした時、『対人倫理2.0』は、無力もいいところだろう。
だって、その相手は、『対人倫理2.0』を持つ「前」の立ち位置なんだから。
『対人倫理2.0』、今、現に、持ってないんだから。
『対人倫理2.0』、通じる訳がない。
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「相手にやり遂げさせてやる、仁義(優しさを超やっていく気持ち)」
などというものを、持っている人は、確かにいる。
さっきの『対人倫理2.0』の例で最後に挙げた、先輩や養育者の持つ『ケア/危害』は、正しくそういう意味合いを持つものだ。
そういう人と運良く巡り合うと、
「擦り合わせにおいて、ソフトランディングが出来る」
という、とてつもない有難みがある。
この、いわば義侠心は、そのままでは頼りにならない後輩を導いて、協働を円滑にやっていくための処世であると同時に、もちろん後輩の処世を円滑にするものである。
これが、狭く世知辛い世間の、生きていきやすさのために、計り知れない貢献をしている。
これこそ、ある種の賢者の石だ。ほんものの宝物だ。
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だが、そういう人たちは少ないし、その人たちの余力も有限だ。
やり遂げさせてもらうために、やはりそういう人たちに、好印象を持ってもらい、いつかはちゃんとお願いしなければならない。
それが不可能なら、ハードランディングのような擦り合わせは避けられないだろう。
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そもそもランディングも擦り合わせもしたくない?
それだと得られるものは少なくなるし、それにしばしば人は耐えられなくなり、不平不満の塊になる。
いつかはエイヤッとやった方が、生活や社交や処世の収支が黒い(はずだ)。
3.対人欲求のエゴイスティックさと『対人倫理2.0』の話(総括)
要するに。
人に対して抱く欲望、対人欲求も、欲望であるからして、基本「エゴイスティックなもの」にならざるを得ない。
庇護されたい気持ちも、群れたい気持ちも、承認欲求も上昇志向も自尊心も、支配欲も独占欲も権勢欲も、ある種の性欲も愛したい欲求も愛されたい欲求も結ばれたい欲求も。
そして、他人に抑圧されないで、自由にやりたい気持ちも、これはまずは欲望だ。
エゴイスティックなものになるのは、むしろ当たり前であると言える。
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「対人欲求に、倫理がビルトインされている」
という話は、別に成り立たない。
「それを守ったら欲望が満たされる」
というのなら、対人倫理を守る動機になるが、対人倫理は欲望の成就に対して、別に寄与しないし、むしろ抑圧するからだ。
欲望は、他者や対人倫理を「逆にこちらから否定すべきものとして」ビルトインした状態で生えて来る。そう考えた方が、はるかに自然だ。
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もちろん、相手だって自由意志のまま対人欲求を振りかざすので、そのまま自分も自由意志のまま対人欲求を振りかざすとしたら、衝突は避けられない。
そういう他者や、あとはやはり未だに在る世間の対人倫理との擦り合わせは、そのうち避けられなくなる。
その結果、『対人倫理2.0』とでもいうべき、(他者の)『自由/抑圧』や『誠実』が要請されてくる。
それらを従来の『対人倫理1.0』の中で、即ち『公正/欺瞞』や『(集団)忠誠/背信』や『権威/転覆』や『ケア/危害』の中で位置づけて、全部『対人倫理2.0』として再定式化することも可能になってくる。
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それら『対人倫理2.0』はとてつもなく便利だが、これは対人欲求をやっていく上で揉めたから、「後」で生じたものだ。
場合によっては、相手がこれを持っていないことすら多々ある。
そういう時は、これを守っても、まず上手く行かない。
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分かっている人は
「オッ、誠実の約束事をやるやつだ。そういうやつのお願いなら、聞いてやっても良いではないか。これは人助けだし、こいつは人助けの甲斐があるやつだ」
とこちらのお願いに乗ってくれるかも知れないし、そういう時は対人欲求が摩擦を起こす度合いも少ない。
だが、「そもそもそういう奇特な義理人情や義侠心のある人は、かなり珍しい、有難い人である」ということを、常に念頭に置いておかねばならない。
『対人倫理2.0』、それほどに脆いものだ。
「あって当たり前」などというものではない。それは、「有難い」ものだ。
そして、もちろん、とてつもなく大事なものだ。
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いつかは。
『対人倫理2.0』を練り上げた、当然そこまで無傷な訳がない、基本ボロボロの相手に、ちゃんとやり遂げさせてやれる。
そういう、立派な大人に、なれるといいですよね。
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対人欲求の穢さと、そこから生じる摩擦に対して、やるだけやって、しっくりと来るようになれば。
気が付いたら、立派な大人に、なれているのではないだろうか。
だとしたら、そういう立派な大人は、とてつもなく「到達して来た」人だし、たくさん「得て来た」人生を送ってきているに違いない。
輝かしく、そして、羨ましい話だ。
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だから。
いつかそうなるかもしれないし、ならないかもしれないが。
出来れば、少しでもそこに近いところにいるために。
とりあえず、やっていきましょう。
(いじょうです)