なんでドキュメンタリーを撮ろうと思ったか。
インスタに予告編、YouTubeに本編をあげさせていただいてるのですが去年の夏頃から3ヶ月ほどかけて大切な友達であり、敬愛するアーティストの1人である
JunyaWatabooIshiiさんのドキュメンタリー映像を撮らせていただきました。
もともと僕のビデオグラファーとしての作品は主にフィーリングが合う好きなダンサーを被写体としたいわゆるPVのような1分〜5分ほどの作品ばかりつくっていました。
そんな中で突然ドキュメンタリーを撮ろうと思った経緯を書いていきたいと思います。
まず、僕は映像作品だけじゃなくて、踊りや他のアートに対して、
「嘘くさい表現は嫌い」
という思いが根底にあります。
人に魅せるために思ってもないことをしたり、カッコつけたり、キャラクターを創り上げてそれを演じるのは、多分大事なことだと思うし、大切なことを伝えるための前フリとか深いところと浅いところの振り幅みたいなものを与えるには場合によっては必要だと思いますが、本質が見えない、どこかの誰かから借りてきたみたいな表現を目にすると真っ直ぐにその表現を観ることができません。
「お前誰やねん?」
と思います。
普通に生きてて出せない素の部分であったり、
踊りでしか、絵でしか、歌でしか、出すことができない自分自身を。
内臓をぶちまけるようなモノをこそ美しいと思います。
少しでも良いから
その人が産まれて。生きて。思って。感じて。
それでも生きた証拠を。
それまで培った人間を。
一瞬で良いから何かを表現するならみせて欲しい。
そこまでの道のりのなかでそうじゃない部分を出すのは最初にも書きましたが良いと思います。
ただ、
最初から最後までカッコつけたような。
最初から最後までのっぺらぼうみたいな。
そんなモノを観るとつまらないなって思ってしまいます。
なんだか少し空しいような気分になります。
だから僕は踊りにしても映像にしても自分という人間に対して誠実であろうと思っています。
できるだけ嘘のない生の自分の表現をしていたいと思っています。
純粋であることは歳をとるごとに難しくなってしまうことかもしれないけど、自分の感覚を研ぎ澄ませて修行する日々です。
映像作品で具体的に意識していたことは、
「踊り手、撮り手が完全即興であること」
「ビートに合わせてカット割しないこと」
です。
1つ目は、踊る方も僕自身も振り付けや構図を敢えて決めずにその瞬間の感覚で動いて映像を残すことです。
どんな映像もそうではあるけど、
「その日その場所でしか生まれないモノ」をより鮮明に残せるんじゃないかなと思ってそういった撮影方法をすることが多いです。
お互いの感性のぶつかり方が激しいように撮影しています。
2つ目は、編集をする上で気をつけている点です。
基本的に大体のPVなどは、ビートがあるBGMを使っている時はその音に合わせて、シーンを切り替えるのが主流だと思います。
ただ、僕の場合はそれをやるとカッコつけたドヤった映像になってしまうので、音楽はあえて気にせず、素材の映像の質感や使いたいカットの尺を優先してその雰囲気に合う音を載せることが多いです。その中でたまに意図的に音にはめる部分を入れることもありますが、それは他の部分を鮮明にみせるためにやることが多いです。
使う音源は基本的に自分が好きなアーティストのモノをiTunesで落として使うことが多いです。
フリー素材でつくることはありません。
YouTubeにはあげれないことが多いけど、自分の世界観を表現するために音楽は重要だと考えています。
早いテンポの曲とスローな動きの映像、逆に遅いテンポの曲と速い動きの映像。
時にはテンポなどない曲でつくったりもしますが、それらは映像(基本的に人の身体の動き。踊り。)をより生々しくて表現してくれると感じていて、曲のカウントやビートに合わせないことは僕の映像表現にとっては大事なことです。
「嘘のない生々しい表現」
をいつも心掛けて映像にも踊りにも取り組んでいます。
それは4、5年ほど前から変わりません。
そこからドキュメンタリーに興味が行くのは自然なことかもしれませんが、明らかにキッカケとなった本があるのでその本を最後に紹介したいと思います。
それは、写真家の外山亮介さんの
『導光ー花は盛りにー』
です。
この本は、外山さんがある写真の企画を始めてから10年間の軌跡を1冊にまとめたものです。
その企画というのを簡単に説明すると、
「日本全国の若手の伝統工芸の作家、職人にお話を聞きに行き、一人一人に自分への手紙を書いてもらい、その後ポートレートを撮影し、10年後にまたその職人さん達のポートレートを撮りに行く」
というものです。
その企画にも感動したし、また、
外山さんは10年後の撮影のために新たな技法を模索し始めます。
レンズを自作したり、現像するのをただの紙だけでなくあらゆる素材を試して、写したいものを追い求めます。
この本を読んで
「モノづくりってこういうことや。こうでないとあかん。」
って感じました。
これを読んで自分の映像表現についてもう一度考えさせられる機会を得ました。
「もっと生々しいものを。」
「もっと純粋なものを。」
考えていくと、ドキュメンタリー映像というのが頭に浮かびました。
「余計なものは排除して、アーティストの人間としての思いや考えを肉声や表情を大事に映像として残そう。」
と考え、今回の作品を制作しようと決めました。
被写体は思いついた時からwatabooさんにしようとすぐ決めました。
watabooさんは僕の思う本質を身体で理解しているアーティストで、いつも話していておもしろい話をかっこつけずに話し合える関係だったからです。
誰彼構わずただドキュメンタリーを撮りたいとかではなくて、自分が好きで本気で興味のある人でないと意味はないと思いました。
その思考は間違いは無かったと思っています。
僕は基本的に人に興味がありません。
好きな人は大好き。
それ以外はどうでもいい。
極端に言うとそんな風に考えて生きています。
そんな無関心な僕でも好きになれる人をお互いで深掘りして、人間としてのその人を少しでも僕自身も相手自身も理解できたらきっと素敵だなと思いました。
ドキュメンタリー自体初めてで、色々と想定外のこともあり、とても映像として淡白な仕上がりになりましたが、それでも良い作品だと感じています。
ドキュメンタリーは、エンタメですら無くても良いんじゃないかとも思っています。
エンタメとしても良い作品になるにはこれから技術や経験で少しずつ良くなっていくと思いますが、初期衝動や、表現する上で大事な本質の部分。純粋な部分は滲み出る作品になりました。
まだまだ駆け出しですが、ドキュメンタリー作家として1人目の作品です。
YouTubeのリンクを貼っておくので
良かったら観てみてください。
どうかよろしくお願い致します。