信じるということ。

直接的過ぎるタイトルをまたつけてしまった。
もっと捻った粋なタイトルをつけたい。
センスを感じさせるような。
おや、他とは違うなっていうやつ。
それは今まで見たこともないようなモノでもいいし、みんなが知っているモノだけどまだ言葉にできていなかった感覚でも良い。
どちらも発明であり発見でもあり、それで一目置かれるかもしれない。

そんなことを考えているうちに大事なモノを取りこぼしてしまうかもしれないからそういうモノはセンスがある人に一旦任せて自分はシンプルタイトルに胸を張れる努力をしよう。

『信じること』が僕はとても苦手だと言うことをさっき気がついた。
特に人を信じることが。
信じることは難しい。
なんで難しいのかというと「信じる」ということは「裏切られる」リスクを伴うからだと思った。
僕は裏切られることがとても嫌いだ。
とっても悲しい気持ちになるから。
ただ嫌なことが起こるよりも、一度何かにすがっていたり期待してしまうと感情の落差が明らかに大きくなる。
そういったことは多分今までの人生で大なり小なり起こった悲しい出来事の積み重ねで学習していったように思う。

金曜日に友達に借りたいとお願いした漫画が月曜日に来なかったこと。
小さい器に盛り付けれると思ってたフライパンの麻婆豆腐が結局溢れてしまったこと。
友達も同じ音楽が好きだと思ってたこと。
カレーが嫌いな人はいないと思ってたこと。
隣のクラスのあの子も僕を少しは好きでいてくれてると思ってたこと。

小さい悲しみや大きい悲しみを経て僕は自分を守る術をつくっていだ気がする。

「これくらいのお願い簡単でしょと思ってお願いしたことでもそれがその人にとって難しい時もある」
「思ったよりも入るけど思ってたより入らないのがお皿」
「自分の好きは他の人の好きとズレることが沢山あってそれは仕方ないこと」
「自分の常識は他人の非常識」
「感情の好きには色々あって自分が異性から異性的に好かれることなんて基本は無い」

少しずつ少しずつ世界は自分の思い描いていたモノとは違うことを知る。
悲しみを経験していくことで自分は希望的観測で
モノゴトを見ていたと知る。
そういったものを排除して、自分の思い通りにならないことが当たり前なんだと意識する。
すると今までの「当たり前」は「有り難う」に変わる。
以前も書いたけど、ダンスの師匠が言っていた
「有り難うの反対は当たり前。」
という言葉に繋がる。
あって当たり前と思っているものには人は感謝しない。
皆須く空気を吸って生きているのに空気に感謝する人はほとんどいない。
今ある「当たり前」を「有り難う」に変えていければ少しは優しい人になれる気がする。
僕は強く優しくありたい。

そうやって少しずつ僕は信じること、期待することをなるべくしないよう生きてきたように思う。

でも。

人には信じなきゃいけないときがあると思う。
そして全部信じたい人がいると思う。

大切な人を信じ通すこと。
それはとても怖いことだ。
「どうでもいい人を信じて裏切られること。」
「大事な人を信じて裏切られること。」
しんどいのがどっちかなんて簡単にわかることだ。
もちろんその人のことを信頼しているし愛してる。
けど信じることとはまた違う。
信じることは自分がどうしようもないことを自分にとってそうであってほしいと相手に願うこと。
どう頑張ってもどうしようもないことを祈ること。

「人は人。どうしようもないことに期待するより自分自身を見つめ直すことが大事。」

みたいな言葉も聞こえてくる。
そんなこと頭ではわかってる。
でもそんなことで納得できるほど達観できない。
大切なひとの大切なひとでありたい。
でもそうじゃなかったら。
考えただけで恐ろしい。
僕の臆病は加速する。

でも。
これから信じなきゃいけないとき。
また信じてみようと思った自分がいたなら。
今この文章を書いている僕が抱きしめてあげたい。

もしも世界に裏切られてしまったなら。
その悲しさを踊ろう。
もしも信じて良かったなら。
その幸せを踊ろう。

今の自分は踊りのことばかり考えて閉じてしまっているから、そういう結論しか出せないけど。
これからの自分の勇気と未だ見ぬ景色が素晴らしいことであることを祈る。

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