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わかんないの

私は未だになんにもわかんないの。人の死も洗濯の仕方も料理の作り方も、父と母が出会ったことも子宮の中で育ったことも、ぞうきんの絞り方や本の読み方、哲学もアダルトビデオも、なんにもわかんないの。

彼女が並べた単語に、私は相槌をうつ。無造作に並べられた単語の意味は喫茶店の暖房によくとける。カフェラテをくるくるまわして、午後三時半の穏やかな冬の太陽に、中野駅は雑多で困る。ここは中野じゃないけれど。

わかることもあるの、わたしがここにいることやあなたがここにいること、私はアメリカンコーヒーを飲んでいて、あなたはカフェラテを飲んでいること、ここは中野じゃなくて吉祥寺でもないこと、池袋でもなければ品川でもないこと、しかし東京のどこかだということ、ここは喫茶店だということ、口ひげをたくわえたマスターが何も言わずに白いカップを延々と磨いていること、客はわたしたちしかいないこと、ね、わかっているの。

彼女はそう言って視線をおとした。すっかり冷めてしまったカップを両手で包み込んで、土曜日の昼間は足取りおそく過ぎていく。東京のどこでもない場所から眺める景色は、ぼんやり浮かぶ太陽ぐらいで、空はうすいあおをのばしては微笑んでいる。彼女の並べる単語は脳みそを通過してわたしの後ろへ消えていく。決してとどまることのない声と単語は、血液の流れに乗ることはない。彼女自身にその自覚があるかはわからない。

なにかが悲しいとひとみが訴えて、うつむきながら、しかしおそるおそる、窓からの景色を眺める彼女の横顔は、唐突にきれいだった。東京のどこかの喫茶店で、未だになんにもわからない彼女と、わかることもある彼女の、何かと何かがぶつかって、冬の日差しできれいに浮かび上がっていた。彼女はとうとつに、美しかった。

あなたにわかることはあるの? もしあったとして、なにがわかってなにがわからないの? よければ教えてほしいし、いやだったらそのままなにも言わなくていい、そうしたらわたしもよくわかるし、わからないことはわからないままでしょう。

カフェラテをもう一度くるくるまわしながら、そうだなあ、と呟く。三時半を過ぎたということはわかるし、わたしが冷めたカフェラテを飲んでいることもわかる、あなたはいつもアメリカンコーヒーを頼むし、そうやって悲しげにうつむくこともわかる。わからないことといえば、なぜわたしの伯母は六十六歳で死んだかがわからなし、なんで母はわたしと伯母を会わせなかったのかわからないし、でも母がわたしと伯母を会わせなかった理由もわかる、長崎の海と故郷の海の違いはわからないし、そもそも知る由もなかったからわからない、ということをわかっている。気づけばわかるし、気づかなかったらわからないまま、ということもわかっているしわかっていない。

彼女のとうとつな美しさはとうとつに消失した。腕時計は午後三時四十分をしめして、土曜日の休日はまだ終わらない。彼女はわたしのことばを脳みそのどこかの袋に詰め込んで、ミキサーにかけてはとかそうとしている。彼女の声は冬の日差しにあっという間にとけていくのに、わたしの声はとけていかない。油みたいに浮き上がって孤立して、ただただようのみ、だ。

四時になったらこのお店を出よう、というと彼女はわかったといった。お店を出ることはわかったけど、出てどうするのかはわからない、ともいった。未だになんにもわかんない、と愚痴めいていう。その愚痴は呪いのことばにも聞こえるし、しかし彼女の声はどこへでもあっという間にとけてしまうから、とても弱々しい呪いのことばだ。東京の、たとえば新宿の地下街とか池袋の西口とか、円山町のラブホ街とか東京駅の新幹線乗り場とか、どこでもない喫茶店の窓際の席とか、とにかくどこでもなんでも、否応なしにとけてしまう声。彼女のことばはことばではなかったし、それは単語でしかないのかもしれない。わたしは単語にならずにことばとして油みたいに漂っては、とかすすべを知らない。教えてよ、というと、彼女はやはり悲しそうにうつむいて、未だになんにもわかんないの。という。

わかんないの、なんにも。人の死とか洗濯の仕方とか、卵焼きの作り方とかあなたの伯母の死んだ理由とか、どこにいくとかなにができるとか、どうして今年が羊どしなのか、なんにもわかんないの。


#詩
#散文
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