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持ってる安部公房全部読む ー夢の逃亡ー

昨日、古本市に行ってきた。安部公房は全集が置いてあるのみだったが、全巻並んだそれを見て興奮してしまった。安部公房全集は装丁もシンプルで格好いい。色んな作家の全集を見ていると、それぞれの味が出ていていいなと思う。装丁も含めての本だから、そういうところも好き。今日は、ちょっと不気味な表紙絵の安部公房について。

2023年5月5日、夢の逃亡を読む。これは、安部公房が25 歳くらいの時に書いたものを集めた初期短編集。この頃から夢と現実の境界のあやふやさは作品の中でしっかりと息づいていて、読者は不気味と言っても過言ではない世界へ否応なしに連れて行かれてしまう。
正直なところを言うと、この短編集はかなり難解だと思う。別に理解出来るとも思っていないし、理解しようとして読んでいる訳ではないのだが(多少はそうやって読む努力をしてはいるが)、安部公房って何考えてるのかなと思わざるを得ない。なので今回は表題作・夢の逃亡について思ったことを書いてみる。


夢の逃亡は、ある不手際でサンチャと名付けられた少年の物語。そのサンチャという名前は、村の人気者の少年・三太の愛称だった。だから皆、サンチャの名前を呼ぶのを憚った。誰かが三太を呼んだはずなのにサンチャが返事をしようものならば、容赦無く殴りつけられる。皆んなでワラビ採りに行きサンチャが最初に見つけても無視をする。誰かがリンゴを盗んで捕まるとサンチャがやったと言い、サンチャは酷く打たれる。チヨという少女に名前を呼ばれたと思ったら「まあ、あんたと違うわ」と言われる。こんな具合で、彼に与えられるはずの幸福は三太の元へ、それ以外の不幸なことはサンチャの元へ。そうこうして彼の身体からは”獣”が抜け出ていき、彼の肉体だけが残る。自分のせいではないことがきっかけで、理不尽な目に遭い続けたサンチャ。果たして彼はこの後どうなるのか。


読み進めていき何となく感じたことだが、この物語においての”獣”とは、所謂”その人の本質”の様なものなのではないか、ということだった。サンチャは名前を呼ばれることもなく、誰からも理不尽に扱われる。唯一、彼の祖母だけが例外であったが、その祖母も段々と名前について理解出来なくなる(そもそも彼の名前がサンチャになったきっかけは、この祖母なのである)。そうしているうちに”獣”が身体から抜け出てしまい、あとには肉体だけが残る。その肉体だけになった彼は、あれやこれやを経てチヨと結婚生活を送ることになる。

そんな彼は作中で”悪夢?今どき、悪夢でない夢なんてあるものか。夢が悪いのじゃない。夢の中に獣たちを追い込んだものが悪いのだ。誰?そう言われると私にもわからない。夢はいやでも、獣たちのために膨張し、重味を増し、ついには眠りの中だけでは納まらなくなって、現実の中にはみ出してしまう”と言っている。

夢には私たちの深層心理が反映されているとよく聞くが、獣を夢に追い込んでいるのは私たち自身、ということになるのだろうか。何かから逃げようとしているのに走れない、もうとっくに卒業しているのに単位を落とす、書いても書いても卒論が終わらない等々。勘弁して欲しい。でも、彼が言っているのはこういうことなんだと思う。これらの例(実際に私が見た夢)は別に今の私の現実にはみ出したりはしていないが。


名前の喪失や夢というのは安部公房文学の重要なキーになっているが、今回もそれが感じられただけで、理解する前に煙に巻かれてしまった。またもや安部公房にしてやられたな、という気持ちでいっぱいである。


夢の逃亡/安部公房(新潮文庫)
※こちらも絶版本なので、Amazonのリンクを貼る

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