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「好き」と「嫌い」は同素体

 人を好きになることや嫌いになることに明確な理由がなくとも、何かしらのきっかけはあると感じる。言葉や声や仕草、表情や持ち物や肩書きなど、少ない情報でも人は“判断”することができる。

 理由もなく嫌われることが、最近あった。相手は私よりも随分年下の若い女性で、彼女は初対面の頃から私を避けているのが容易に分かった。挨拶をしたり声をかけると、それまで明るかった表情が一遍、頬が下がり目が見開き“恐怖に慄いた”ような硬い顔つきになる。声のトーンも低くなり、明らかに嫌悪感もしくは不快感を抱いている。私は彼女に対して「嫌われたくない」とか「仲良くなりたい」なんて意識は全くなかったけど、「もう少し普通に振舞えないものか?」「あからさますぎない?」という疑念は多少なりともあったし、そういう不自然な態度で毎日接して来られると、こちらとしても気分がいいものではない。何度か笑顔で接するようにはしていたものの、彼女の意固地な態度が変わる様子はなかったので、本人には申し訳ないが接触は極力避けるようにして、自分の心を守るためにも、近くにいても目を見て挨拶することをやめたのだった。

 なぜ私が彼女の存在を“気にしていた”のかといえば、“分からないから”である。人を好きになるにも嫌いになるにも、何かしらの理由やきっかけがある。彼女以外にも私に対して苦手意識を持っているだろう人や、明らかに避けている、嫌っているだろう人も何人か出会ってきたけれど、その多くは「私のこういうところが不快なのかな」とか「あの時の発言を根に持ってるのでしょうね」など、おおよその見当がついた。ある程度の交流や時間の共有を経て、お互いにその人となりを知り「好きだな」「面白いな」とか、「苦手だな」「合わないな」という認識を深めていく。好きや嫌いという感情・思考は、そういったプロセスの中にある“気づき”なのだ。
 しかし該当の彼女に至っては、こちらが認識した時には既に「嫌い」を前面に出しており、一体いつどの場面で? 何が原因なの? と、本人に確認しなければ解けない問題に、私はいつまでも思考状態を続けてしまっていたのだ。

 上記のことを考える中で、何かしらの着地点があるのではないか? と、先日深く内省をし大切なことに気づくことができた。ゆえに、この記事を書き起こしている。
 該当の女性と出会った頃と同時期に、これと似た状態に私は陥っていたのだ。とある男性が“私に片思いしている”ということがあり、そしてその理由を、そのきっかけを、私は今でも知ることができないでいる。「一目惚れ」と同じように、合理的な解釈を後付けしなくてはならないような感情の表出を、私を一方的に嫌った女性にも見出せるのではないか? と、私は考えたのだ。

「好き」と「嫌い」は同素体

 想像してみれば、「私の知らないところで、私の態度や言動を見て、私のことを好きor嫌いになったのだろう」と考えることはできる。こちらの姿を目撃し、何かしらの情報を手にし、自分の過去のパターンと照らし合わせて「こういった人は優しい人が多い」とか「こんなことを言う奴は信用できない」とか、そういう関連付けで“私”を構成し、「できれば仲良くなりたい」とか「だから近寄らない方がいい」といった思考を巡らせる。個々人の中で極端に肯定的な判断か、極端に否定的な判断が下され、それを彼ら自身の行動で表現している。これらは本来同じ素材だったはずなのに、各々の思考で加工され、「好き」もしくは「嫌い」に変化したのだ。同一の元素でありながら配列が異なる「ダイヤモンド」と「黒鉛」のように。以前より「好き」と「嫌い」は同じかもしくは近しいものだと感じ考えていたのだが、これによりひとつの答えが出たことになる。それらは「同素体」なのだ。
 芸能人など影響力を持つ人たちには多くのアンチがつきまとうが、これにも似た印象を受ける。アンチの中には「以前はファンだった」という人も存在するし、アンチになったきっかけが嫉妬のケースもある。憧れや羨望はむしろ“自分の理想像”であるはずなのに、各々の心に潜む葛藤がそれを捻じ曲げ“嫌い”を生む。「影響を受けている」「無視することができない」という時点で、嫌いもアンチも“好き”とほとんど差はない。(ただ、否定的な感情を攻撃に変化させてしまうことは、また別の問題である。)

 自分と向き合い自己肯定感を上げることができてからは、人に好かれることが多くなったし、苦手意識を持たれても「嫌われたくない」という雰囲気で接してくる人が多くいる。しかしそんな中でも、あからさまに否定的な態度で圧をかけてきたり、まるでこちらが悪者であるかのように接してくる人もいて、そこまでくると、「私にはどうすることもできない」「当人の問題でしかないよね」と、あしらうことしかできない。
 自分自身に嘘をつかず、あるがままで生きる私を好きになってくれる人、愛してくれる人には素直に感謝できるし、今の私を嫌う人がいることも仕方がないと諦められる。でも、“嫌い”は“好き”とほとんど変わらないのであれば、「嫌ってくれてありがとう」なんてことさえも、思えてしまうのであった。


十月二十三日 戸部井