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父の心の傷とプロ野球

 今期は応援している読売巨人軍が活躍している。私は巨人ファンであり、これは父親の影響なのだが、巨人の活躍を機に、父の心の傷について思い返している。

 今よりもまだ20歳以上若かった頃の父は、巨人が負けると手が付けられないほどに大暴れをしていた。既に酔った状態であるにも関わらず、敗戦にムシャクシャしては「やけ酒だ!」と深酒を繰り返し、苛立ちを肥大化させ、物を投げて蹴って破壊。ガラスを割ることや、壁に穴があくことあった。家族には暴言を吐いて、大声で怒鳴り散らして、夕飯の献立が気に入らないからと、日付も変わるような時間帯に母に買い物に行かせることもあったらしい。父は加齢と共にそういった態度を取ることは減っていったけれど、それでもテレビの前で選手の悪口を言ったり、自暴自棄になり汚い言葉を浴びせることはしょっちゅうで、そういった幼稚な態度を見かねた私が、「そういう態度に傷つけられてきた」「怒りに身を任せるのはやめてほしい」と実直に話してからは、少なからず私の前で醜態を晒すことはなくなった。
 選手に対して暴言を吐いたり、球場で観客同士で喧嘩をしたり、グラウンドに物を投げ入れるといった行為をしてしまう悲しい人達は、今も一定数いるようだ。自分が納得がいかないから、と、理性をなくし感情のままに振舞ってしまうことへの懸念は、ひとえに、その人達が抱えている心の傷へと集約される。彼らにとって試合観戦や野球応援は「手段」であり、真の「目的」は、抑圧している感情の発散、憂さ晴らしなのであろう。彼らに必要なのは魅力的な選手や素晴らしい試合ではないし、応援している球団の勝利も必要ない。自分自身の困難に向き合う機会こそ、必要火急なのだ。

 私の父は、被虐待児だったことが容易に想像される。父の実母である私の祖母はかなり深刻な問題を抱えた人で、私が育った環境を「機能不全」にさせた元凶である。そんな人に育てられたのだから、心に深い傷を負っているのも無理はない。父はきっと、繰り返す飲酒や、自分と同一化している野球チームに自分の機嫌を委ねて、必要に応じて機嫌を良くしたり、機嫌を悪くしたりしていたのだと思う。悲しみや怒りの表現方法を、それ以外に知らなかったのだ。それはあまりにも情けなく、不憫で、不幸なことである。
 父のことがあるからか、マナーのない野球ファンを目撃しても不思議とダメージが少ない。極端な捉え方かもしれないが、「この人達も被虐待児だったのだろう」と解釈することにしているからだ。感情に支配されるということは、それだけその人が深い傷や強いストレスを抱えていることの証明。無論、だからといって攻撃することを正当化はしない。けれど、こういった“救われない人達”を糾弾するようなことも、私はしない。

 先日父が「巨人が負けると眠れなくなる」と言っていた。その言葉を聞いてとても驚いたし、少し納得もした。父は巨人が負けて深酒をすることや、大声で暴れることはしなくなったけれど、根本的な心の問題を解決させられたわけではない。巨人が負けたら不幸になる(巨人が勝たないと幸せになれない)といった観念が、未だに彼を支配しているのだから。そういった意味でも、深い部分で父と繋がることは今もできていない。きっとこの先もできないと思う。テレビの前で一緒に野球観戦をして、興奮や感動を分かち合うことはできても、心の奥底にある問題の解決を、父は望んでいないのだから。(そんな深い部分に考えを巡らせているけれど、何はともあれ、今年は巨人に優勝してもらいたい。という、本音。)

九月二十五日 戸部井