「自閉」の可能性をめぐって(1/3)
↓良ければ併せてご覧ください。卒論にとりかかる前の気持ちについて書いてます。
1 はじめに
「若者の政治ばなれ」が叫ばれて久しく経つ。世界各地で学生による政治・社会運動が頻発し、日本もその例外ではなかった「政治の季節」から状況は一変している。それでは実際のところ、若年層は政治・社会運動に対してどのような考えを持っているのだろうか。そして、「政治ばなれ」が克服され、若年層が政治・社会運動に参入することはあるのだろうか。あるとすれば、それはどのような形の運動となるのだろうか。
本論では、若年層の政治・社会運動に対する否定的なイメージに注目するところから始め、最後には彼らが積極的にコミット可能な政治・社会運動の新しい在り方を提案したい。そのためにまず、複数の調査結果を根拠として、現代の若年層が政治・社会運動に対して否定的であること、運動に参加する若年層が減少傾向にあることを確認する。
その理由として、若年層は暴力性に対する拒絶感が強く、また彼らはデモやストライキといった運動の実践形態に対して暴力性を感じているということを明らかにし、前述した減少傾向の裏付けを取る。そこから、なぜ若年層が政治・社会運動に対して暴力性を感じているのかという問いについて具体的な考察を行う。それにあたって、批評家・エッセイストの小峰ひずみが S E A L D s ( 自由と民主主義のための学生緊急行動 ) の運動を総括した『平成転向論』 ( 小峰、 2 0 2 2 ) で論じた、哲学者・鷲田清一の「ことばは「ふれる」ものである」という考えと、政治・社会運動との関係を参照する。
そうして「 ( 運動の外部にいる ) 若年層が、政治・社会運動のどういった点に暴力性を感じているのか」という問いに一定の結論を導くものの、本論文では、そこから「如何にして政治・社会運動から暴力性を排除するか」という議論は行わない。 S E A L D s が既にそれを試みたもののさしたる実を結ばなかったこと、また、再度小峰の議論を参照することで「政治・社会運動においては一定の暴力性が必要である」ことが明らかにされるからだ。
それでは、政治・社会運動は若年層からの忌避感にどう応答するべきだろうか。この問いに対して、本論文では「政治・社会運動に内在しているこのような問題を改善するべきである」という類の提案は行わない。若年層が政治・社会運動を忌避する理由は、「彼らが「国家や社会といった、個人を超えた大きなものとの繋がりを意識すること」に抵抗があるからである」という立場をとるからだ。精神科医・小此木啓吾が「モラトリアム人間」という概念をもって指摘した、現代日本人の特徴である。
すなわち本論では、政治・社会運動が政治・社会運動である限り逃れられない性質こそが、そこから若年層を遠ざけているのではないかと考える。
であれば、要請されるのは「政治・社会と直接的な繋がりを意識することは回避しつつ、それでも既存の政治・社会へと何らかの影響を及ぼす」ような運動である。
本論文では、そのような運動の基盤となり得る思想を提案したい。社会学者・天野義智が『自閉主義のために他者のない愛の世界』 ( 天野、 1 9 9 0 ) で唱えた「自閉主義」である。
天野はルソー、カフカ、プルーストといった「実社会から距離を取り、特異な在り方で繋がろうとした」作家たちの分析を出発点とし、彼らのように直接的な他者や社会との関わりは断ちながら、情報技術や自己表現を通じてそれらと繋がる方法を説く。
本論では自閉主義の考えを整理・確認し、政治・社会運動のための思想として捉えることが可能かを考察したい。
2.近年における若者の政治参加に関する意識
2 . 1
住民基本台帳から層化二段無作為抽出法による全国の 1 6 歳以上の男女 2 4 0 0 人を対象に、国際比較調査グループ I S S P が 2 0 1 4 年 6 月 1 4 日 ( 土 ) ~ 6 月 2 2 日 ( 日 ) にかけて実施した「市民意識」をテーマにした世論調査は重要である。
それによると、これまでに「社会、政治的活動のための寄付や募金活動」を行ったという回答は全体の 4 2 %、「政治集会に参加」したという回答は 1 0 %、「デモに参加」したという回答は7%であった。 2 0 0 4 年に行われた同様の調査では、「社会、政治的活動のための寄付や募金活動」は 3 9 %、「政治集会に参加」は 1 4 %、「デモに参加」は8%であったという ( 小林、 2 0 1 5 、 p . 2 5 ) 。このように、政治的・社会的活動に対して関心を抱く若年層は年々減少している。
また、日本財団が全国の 1 7 歳~ 1 9 歳男女 1 0 0 0 人を対象に、 2 0 2 1 年 9 月 1 6 日 ( 木 ) ~ 9 月 2 1 日 ( 火 ) にかけて実施した「 1 8 歳意識調査」の結果を、コロナ禍以前に行った同様の調査結果と比較すると興味深い事実が明らかになる。
いくつかの項目において、増加傾向が見られるのだ。「政治や選挙が、自分自身の生活にも影響すると感じる」(増えた計: 3 3 . 9 %)、「政治や選挙、 社会問題について自分の考えを持っている」(増えた計: 2 7 . 9 %)、「身近な人と政治や選挙、社会問題について話す」(増えた計: 2 5 . 9 %)、「政治や選挙、社会問題について積極的に情報を集める」(増えた計: 2 4 . 4 %)となっており、政治や社会問題への関心が高まっているように見えるのである。
しかし、このうち「自分自身の行動で、国や社会を変えられると感じる」という項目に「増えた」あるいは「少し増えた」と回答したのは全体の 1 7 . 5 %であり、同様の調査を行った 9 か国中、最下位だった ( 富永、 2 0 2 1 ) 。やはり、政治や社会問題に対する若年層の関心は依然として低いままである。
それでは、政治・社会運動の手段に関してはどのように考えているのだろう。
先の I S S P による調査項目の一つ、「私たちの社会には、いろいろな団体があります。次の A から C にあげたようなことを、あなたは認めるべきだと思いますか。それとも認めるべきではないと思いますか。お考えに近い番号に1つだけ◯をつけてください。」という「社会的寛容度」に注目したい。
この項目では「 A :過激な宗教団体が市民集会を開催すること」「 B :政府を暴力で倒そうとする人たちが市民集会を開催すること」「 C :ある人種や民族に偏見を持つ人たちが、市民集会を開催すること」を認めるべきか否かについて、「1 絶対に認めるべきだ」「2 どちらかといえば認めるべきだ」「3 どちらかといえば認めるべきでない」「4 絶対に認めるべきでない」「5 わからない」「6 無回答」のうち、いずれか最も考えの近いものを選ぶという形式で調査が行われている。
結果、 2 0 0 4 年度・ 2 0 1 4 年度のいずれにおいても「4 絶対に認めるべきでない」という回答が 6 6 . 9 % ( 2 0 0 4 年度 ) 、 6 3 . 1 % ( 2 0 1 4 年度 ) と、最も多く集まったのはB(「政府を暴力で倒そうとする人たちが市民集会を開催すること」)であった。
一方、Bに関して「1 絶対に認めるべきだ」と回答したのは 1 . 7 % ( 2 0 0 4 年 ) 、 1 . 9 % ( 2 0 1 4 年 ) となっており、こちらもA、B、Cの中では最も多い。また、「5 わからない」という回答はもっとも少ない。
このことから、Bの設問に関しては認めるべきか否かという判断が容易であり、また「2 どちらかといえば認めるべきだ」「3 どちらかといえば認めるべきでない」という回答が 3 項目の中で最も少ないことから、一部の層は絶対的な重要性を認めているのに対し、その他大勢の層はむしろその逆であることが読み取れる。
この調査結果と、冒頭で示した若年層によるデモや政治集会への参加率低下はどのように関係しているのだろうか。シノドス国際動向研究所が 2 0 1 9 年に実施した「生活と意識に関する調査」では、 2 0 歳から6 9 歳を対象として、デモに対するイメージを世代別に質問・分析している ( 富永、 2 0 2 1 ) 。
それによると、「デモは社会的に容認できないほど過激なものである」「デモは社会全体に迷惑をかけている」「デモの主張は社会的に偏ったものである」と回答したのは 2 0 代が最も多く、一方「政治的・社会的な主張を行うためのデモは評価できる」と回答した2 0 代は最も少なかった。
これは 2 0 代に特別見られる特徴ではなく、世代が下がるほどこの傾向は顕著になってゆく。 このことから、若年層ほど社会・政治的活動に対して暴力性を感じ、有害性を感じているということがわかる。それでは、このような特徴はここ数十年のものなのだろうか。
2 . 2
精神科医・小此木圭吾は、『モラトリアム人間の心理構造』に収められた、雑誌「 v o i c e 」上に寄せた論考「二十歳は今、なにを考えているか」 ( 小此木、 1 9 7 9 ) にて、 P H P 研究所が行った「二十歳の意識調査」を分析し、攻撃性をはらんでいたり、破壊的であったりするような社会風俗に対する若年層の否定的評価に注目している。
それらの社会風俗には「過激派等の政治運動」も含まれており、「全然かまわない」という回答は全体のわずか 3 . 0 %、「悪いことだと思う」という回答は 2 9 . 8 %で、これはアンケートのなかで最も「悪いことだと思う」という回答が3 8 . 2 %と多かった「暴走族」、それに次ぐ 3 3 . 5 %の「マリファナを吸うこと」に続く数字である。
小此木はこの結果を受け、現代人は学生運動やストライキ、駆け落ちといった、現行の政治体制や労働環境、家父長的な規範といった既存の社会秩序に対して異議を突き付ける生産的な効果が認められる行為に対しても攻撃性を感じ、むしろすべきではないと考えていると述べる。 ( 同、 p p . 1 6 8 - 1 6 9 )
したがって、若年層は政治に興味・関心がないというよりも「政治的な活動に対して暴力性・攻撃性を感じているため、あえて距離を取っている」と考えるべきだろう。小此木は「モラトリアム人間」と彼らを評しているが、前述の若年層を対象に行った調査結果から、現在も状況は変化していないように思われる。彼らが政治・社会運動に感じている「暴力性」の正体とはなんなのだろうか。
3 . 政治・社会運動の現場における「ことば」
3 . 1
大阪大学在学中からカウンター活動に参加し、卒業後も政治・社会運動を実践しつつ批評家・エッセイストとして活動する小峰ひずみは、現代は政治・社会運動のやりにくい時代であると述べている。
そのような運動を広げるにあたっては、運動の外部にいる人々に自分の思想を伝え、説得し、引き込むことが必要となってくるが、しかし、このような営みは真っ向から時代の風潮と逆行するのだという。外部の人々を運動の内部へと引き込むには相手を不快にさせず、むしろ相手の内側に参加への欲求をかき立てなくてはいけないのだと指摘している。 ( 小峰、2 0 2 2 、 p . 4 )
それでは、そのような時代精神に適応する政治・社会運動の形とはなんであろうか。小峰はこの問いに対して「オルガナイザーからエッセイストへ」 ( 同、 p . 6 ) と答えている。オルガナイザーとは言葉通り、オルグし、人々を運動に引き込もうとする旧来の活動家だ。そして、エッセイストというのは小峰が定義した新たな活動家の形であり、運動を実践するにあたって「面白くあること」「格好いいこと」を心がけ、自分も参加したいと外部の人間に思わせる存在である。小峰は、厳密にはエッセイストではなくその対極にあるとしながらも、そのような外部に魅せるパフォーマンスを重視した政治・社会運動を展開した存在としてS E A L D s ( 自由と民主主義のための学生緊急行動 ) を挙げている ( 同、 p p .4 - 7 ) 。
事実、 S E A L D s はユースカルチャーの要素を取り入れた政治・社会運動を展開した。そしてその動機には、前述したような若年層の政治・社会運動に対する暴力的なイメージと、それを理由とした忌避感への明確な意識がある。それを如実に表すのが、 S E A L D s の中心的なメンバーだった奥田愛基の自著伝『変える』 ( 奥田、 2 0 1 6 ) で語られた、彼等が主催したデモに参加した学生活動家とのエピソードだ。
過激派のゲバヘルを被っていた彼に奥田は「僕らは非暴力のデモなんでやめてください」 ( 同、 p . 1 4 6 ) と声をかけ、結果的に彼 ( と、彼の属するセクトのメンバー ) はその後のデモに来なくなったという。
過激派の参加を認めてしまえば、警察とのトラブルが起こるリスクはもちろん、 S E A L D s 自体が暴力を肯定するようなメッセージを発信しかねないという懸念を奥田は抱いていたのだ ( 同、 p p . 1 4 6 - 1 4 7 ) 。
しかし、現代の政治運動ではかつてのようにゲバ棒を振り回してみたり、火炎瓶を投げ込むようなことはない。現在でも暴力革命を目指す政治セクト等は存在するものの、大半の政治・社会運動の中で彼らの存在感は薄い。つまり、運動の外部にいる人々に暴力性を感じさせているのは、あからさまな物理的強制力としての暴力ではないのだ。
であれば「暴力性」を感じさせているのは、運動のなかで繰り広げられる活動家たちの「言葉」ということになるのではないか。
3 . 2
この問題を考えるために参照したいのが、先の小峰が論じた、哲学者・鷲田清一が哲学の言葉についてどのように考えていたのかという問題だ。
まず注目すべきは、哲学者である鷲田が、哲学の言葉についてある反省をしていることだという。
鷲田は『「聴く」ことの力 臨床哲学試論』 ( 鷲田、 2 0 1 5 ) にて、哲学の言葉の在り方が、人々を哲学から遠ざけている可能性を示唆する。
ここで小峰は、鷲田が言葉は「肌ざわり」を持つと考えたこと、「ふれる」 ( 小峰、 2 0 2 2 、 p . 2 9 ) ことのできるものとして捉えていることを重要視する。鷲田の発想を、「言葉の内容 ( シニフィエ ) 」にばかり価値をおき、「表現 ( シニフィアン ) 」を劣位においていたのではないか」というものとして解釈するのだ。
この解釈に拠れば、言葉は「ふれる」ものであり、
したがって内容がどうあれ、表現次第では「ひとを支え、ひとを傷つける」 ( 鷲田、 2 0 1 5 、 p p . 1 8 - 1 9 ) ことが可能になる。
これこそ、政治・社会運動の外部にいる人々が、その内部の言葉に感じる暴力性の正体だと考える。彼らの言葉の「内容」にいかなる道徳的正当性や理論的正当性があっても、言葉が「ふれる」ものである以上、その「表現」次第で暴力性を帯びてしまう。
「モラトリアム人間の時代」( 小此木、 1 9 7 7 ) 以降、政治・社会運動を実践してきた人々は、「政治・社会運動の中で訴えられる主張の内容ではなく、それを語るそのことばの肌ざわりが、ひとを傷つけることがあることに、無自覚でありすぎた」ということなのではないだろうか。
3 . 3
その無自覚が引き起こし得る最大の問題は、「政治・社会運動の言葉を必要とするはずの人々が、そこから離れていってしまう」ということだろう。その具体的なケースを考えてみたい。
総務省情報通信政策研究所が 2 0 2 2 年 8 月に発表した「令和3年度情報通信メディアの利用時間と情報行動に関する調査報告書」によると、現在 1 0 代のツイッター使用率は 6 7 . 4 %、 2 0 代の使用率は 7 8 . 6 %と高い。
したがって、おそらく若年層にとって政治・社会運動に触れる最も身近な機会はツイッターではないと考えられる ( いわゆる「ハッシュタグ・アクティビズム」等 ) 。なかでも、日本において現在最も盛んにおこなわれているツイッター上の政治・社会運動はフェミニズムに関するものだろう。
しかし、ネット上でフェミニズムは「怖い」という印象を持たれていることが多いのも事実である ( 大澤、 2 0 2 2 ) 。ツイッター上での運動は言葉によるものに限られる以上、その「怖い」は運動の主体が発する言葉によってもたらされた印象と考えるのが妥当だろう。
そこで訴えられている言葉は、運動の外部からは暴力性を感じさせるには十分かつ、その運動に参画する人々は言葉が「ふれる」ものであるということに無自覚なのではないだろうか ( また、このような指摘は「トーンポリシング」であるとの批判を免れないが、本論文ではその点に関して詳細な検討は行わない ) 。
しかし、「フェミニズムの問題」は、その運動に積極的に参加する人にとってのみ当事者性が存在する問題ではない。「ツイッター上で議論されているフェミニズムへの印象から、フェミニズム ( やフェミニストによる運動 ) を忌避する人」の中にも、フェミニズムの言葉を必要としている人が存在すると考えるべきだろう。
朝日新デジタル編集部の記者である原田朱美がオンラインニュースサイト・ W i t h n e w s にて連載していた「 L G B T のテンプレ考第 1 1 回」( 原田、 2 0 1 8 ) では、 L G B T 活動家に対して否定的な考えを示すセクシャルマイノリティ当事者の意見が紹介されており、活動家に対して、異なる意見の持ち主に対してむしろ差別的な言動を取っているように見える、自分たちに肯定的な意見しか認めない、といった非寛容なイメージを抱いている当事者がいることがわかる。
彼らは活動家の言葉に「ふれる」ことでその表現に棘を感じているのだ。必然的に、彼らはそれらの政治・社会運動から距離を取り、その担い手が語る言葉は届かなくなる。
しかし、その政治・社会運動の言葉は、それを忌避する彼等にとって有用性や必要性のある内容であることも多いはずだ。その言葉が表現によって届かなくなることこそ、言葉が「ふれる」ものであるという点に活動家が無自覚であることの弊害なのではないだろうか。
したがって、暴力性を排除した政治・社会運動には意義がある。先ほども紹介した通り、 S E A L D s はそのことに自覚的であり、過激派を排除し、やわらかい言葉を使ったシュプレヒコールを叫んだ。政治・社会運動を魅力的なものとして演出しようと試み、ヒップホップなどのユースカルチャーを盛んに運動に取り入れた。
それらの努力は確かに一定程度実を結んだものの決して十分とは言えなかった。実際のところ、S E A L D s の活動は内田樹、高橋源一郎といった同伴知識人をはじめとしたかつて「政治の時代」に闘士として参加した運動家や同世代かそれよりはもう少し若い高年齢層によって支えられており、運動の外部にいた若年層を取り込むことはできなかったのだ。
2 0 2 1 年に朝日新聞和歌山総局記者・滝沢貴大が S E A L D s K A N S A I に参加した服部涼平に行った取材の中で「デモに参加して感じたのは若者の少なさです。『若者がデモに参加した 2 0 1 5 年』という切り取り方をされることもありますが、実際は大半が年配の方でした。学生は時間的にも金銭的にも余裕がないのは大きいと思います」 ( 滝沢、 2 0 2 1 ) と、当事者によってその実情が語られている。
また、 S E A L D s は「自由と民主主義のための学生〝緊急〟行動」であり、党や結社の形をとって継続的に運動を行うという選択は採らなかった。よって彼等はその一部を除き、運動が終わったあとは日常へ回帰していったのである。その運動を引き継ぐような集団も現れなかったため、彼等の「暴力性を排除して外部 ( 政治に興味のない ) の人間を運動に取り込む」という試みを引き受けている政治・社会運動は存在していない。
しかし先述した通り、 S E A L D s がいかに暴力性の排除に気を配っても、外部から若年層が参入した事実はなかったのである。これをどう捉えるべきであろう。「若年層の政治・社会参加に真に必要だったのは暴力性の排除ではなかった」のか、あるいは「 S E A L D s による暴力性の排除は徹底されなかった」のか。
まず、前者の可能性は低い。若年層の暴力性への寛容度が低いことがわかっている以上、暴力性の排除が一定程度有効である可能性は否定できない。では、後者はどうだろう。「民主主義ってなんだ?」を代表する彼らのシュプレヒコールは、聴衆に訴えるというよりは問いかけるような言葉が多く、言葉のレベルにおける暴力性の排除という点で過不足なかったはずだ。
しかし、そもそも政治・社会運動から暴力性を徹底して排除することに、問題はないのだろうか。
3 . 4
ふたたび小峰の議論を参照しよう。先述した通り、小峰は、言葉を「ふれる」ものと考え、それを今までの哲学が見落としていたのではないかとした鷲田の問題提起に注目するが、「ふれる」ことの加害性を否定的に捉えた鷲田とは別にもう一人、詩人・谷川雁も重要視する。
小峰曰く、谷川は鷲田と同様に言葉を「ふれる」ものとして認識しているが、彼は言葉が「ふれる」ことの加害性を肯定的に捉えているのだ。 ( 小峰、2 0 2 2 、 p p . 3 4 - 3 9 ) 谷川はみずからの参加した九州の炭鉱における労働争議において「大正行動隊」という新たな組合を組織するが、それにあたっては労働者たちを勧誘することが必要になってくる。
谷川はこの勧誘において、言葉が「ふれる」ことによる加害性を重視する ( 同、 p p . 3 6 - 3 7 ) 。谷川は S E A L D s のように運動の外部にいる人間にもわかりやすく伝わるような、柔らかく攻撃性の排除された言葉で呼びかけることをしない。
谷川の言を借りれば、「人々を上から組織することに熱中している言葉」( 谷川、 1 9 5 8 、 p . 4 8 ) を使う。勧誘される労働者からすれば、そのような言葉に「ふれる」ことは快いものではない。「思想の伝達に用いる主な言葉は一種の公用語であって、私生活とは無縁の場所から発生したもの」 ( 同 ) であるからだ。難解かつ、常識的な感覚から外れていることもままある。
ただし、谷川はそのような「組織語」 ( 同 ) を労働者にぶつけることで、労働者が谷川のような知識人に近づくことを求めているわけではない。むしろ、労働者自身が自分の生活感覚に基づいてそれを飲みこむことで、組織語は、労働者が自身の日々体験する生活の実感に基づいて語る「生活語」 ( 同 ) とすり合わされ、知識人だけでは決して語り得ない「新しい言葉」 ( 同、 p . 5 0 ) が導かれると谷川は考える ( 同 ) 。
のだ。 小峰曰く、鷲田も谷川も、言葉を「ふれる」ものだと考えている点に関しては同様だ。しかし「ふれる」対象の肌に合わない言葉を、発話者の側が配慮するべきではないかと考える鷲田に対し、あえてそのままぶつける必要性を谷川は唱えるのだという ( 小峰、 2 0 2 2 、 p . 3 9 ) 。
「若者は政治に積極的に参加する過程では必然的に暴力的にならざるを得ないと考えており、したがって政治から距離を取る」現代では、時に暴力の必要性や攻撃的な文言を含む組織語をぶつけるという谷川の思想は時代にそぐわない、打ち捨てられるべきものだろうか。そうとは限らない。確かにそれは運動の拡大する障害にはなり得るが、運動そのものの発展には必要であるからだ。運動の拡大と発展は必ずしもイコールではなく、谷川の求める「新しい言葉」 ( 同、 p . 5 0 ) は後者のために必要なものではないかと考えられる。
各種意識調査や小此木の考察から導き出される若年層の政治・社会運動への忌避は前者にとっての障害ではあるが、それを優先して後者を軽んじるようになれば、運動は停滞する。
拡大と発展の両輪を回すことで運動は健全に駆動するはずだ。であれば、言葉の暴力性を肯定する谷川的な運動と、配慮する鷲田的な運動の両方が同時に必要とされるだろう。
しかし、後者には限界があるということが S E A L D s の前例によってわかっている。その限界を超えるべく無理に暴力性の排除を徹底すれば、谷川的運動は諦めざるを得ない。必要なのは、二つを一つの運動の中で両立させることだ。やはり、政治・社会運動において一定の暴力性は保たれなければならないのである。
それでは、社会・政治運動から若年層を遠ざけている別の要因を発見し、それを取り除くことで運動の拡大を試みるべきだろうか。たとえば、主権者教育の不十分さゆえに政治に馴染みを持てず、否定的な感情こそないがなんとなく忌避している可能性、政治家の平均年齢の高さや、若年層にとって身近な施策の少なさから「自分には関わりの無いもの」と考えている可能性、十分に知識や興味関心はあるものの「どうせ何も変わらない」という諦念から距離を取っている可能性など、いずれも「若者の政治ばなれ」が語られる際に挙げられる典型的な例が考えられる。
しかし、本論ではこれらの「政治・社会運動に内在する問題が、外部の人間を遠ざけている」という類の仮説はこれ以上検証しない。
そうではなく、「若年層は政治や社会という、個人を超えた大きなものに干渉すること・関わろうとすること自体を拒絶しているのではないか」という見解をとる。 もしこれが正しければ、政治・社会運動の在り方を如何に内省し、時代精神に合わせて改良を重ねたとしても、それが政治・社会運動であるというだけで若年層からの忌避を招くだろう。
であれば、「政治や社会と直接関わることは避けつつ、それでも何かしらの形で繋がろうとする」という形での政治・社会運動への参画を発見しさえすれば良いのではないのだろうか。
また、それは「自らが政治・社会に参加、および影響を与えている」という自覚をしないままに達成される必要があるのかもしれない。
若年層の存在なくしては成り立つことのない政治・社会運動とその思想は、彼らの主体的な政治・社会への参画を断念することで逆説的に可能になるのではないか。そのためにはまず、そもそもの「若年層が政治や社会といった、個人を超えた大きなものと繋がることを拒む」という現象について考える必要があるだろう。
それにあたり、『モラトリアム人間の心理構造』所収の「二十歳は今、なにを考えているか」 ( 小此木、 1 9 7 9 ) を再度参照する。