新興宗教の教祖になってお布施で生活したいのでとりあえず何かありがたみのありそうなことを書いてみる4~いかにラクをして生きるか・「スキ」と「得意」を考える〜
こんにちは、新興宗教の教祖になってお布施で生活したい桐谷です。Twitterで数年来の知己に前回の教義「新興宗教の教祖になってお布施で生活したいのでとりあえず何かありがたみのありそうなことを書いてみる3~いい人は、あなたにとって有益な人とは限らない〜」を読まれたところ「普通に経験に根ざした良いことを書いてるから教祖は無理がある」「新興宗教教祖が自立を促すという微妙な矛盾」と指摘され、言われてみればその通りだと爆笑しました。
しかしまぁ実際のところ本気で宗教法人の立ち上げを検討しているというわけでもなく、ある日ふと「新興宗教の教祖になってお布施で生活したいなぁ……」と思ったことが発端です。
黙っていても信者は増えないので、じゃあお布施もらえるようになんか書くか。というきっかけで始めたので大体オッケーでしょう。
自立、いいですね。バンバンしましょう。そして自立を促した僕を教祖として崇めてください。それでトントンです。
さて、本日のテーマは「いかにラクをして生きるか」です。ラクな生き方といってもアプローチの方法は色々とあると思います。
なので今回は、ラクに生きるための方法として【「スキ」と「得意」を考える】ということについて書いてみます。
私は「スキ」を諦める?
この記事の結論をズバリ言うと、「スキ」と「得意」で生活を満たすことができれば、必然的にラクな生き方に近づくということになります。
その一方で、こんな言説もあります。
「好きなことを仕事にしてはいけない」
これはちまたでよく言われることです。特にあなたが、公務員、または会社員以外のことを仕事にしようとしている・過去にしていた場合には、もう耳にタコが100匹くらい生えてくるほど聞かされたことでしょう。タコパできますね、タコパ。それも、かなり盛大に。僕は関西在住ですが出身は新潟なのでたこ焼き器持ってないけど。
閑話休題。
さて、この言説、果たして本当でしょうか?
結論から言うと、そんなことはありません。ただし一方で、必ず間違っているとも言い切れません。
それは何故か。
答えは簡単、どんなに「スキ」なことであっても、「得意」でないことを続けていくのには、そもそも無理があるからです。
そもそも、人にとって「スキ」なこととは、そして「得意」なこととは、どういうことなのでしょうか。
それを解き明かさない限り、「ラクに生きていく」ということは達成できない目標になります。
「スキ」 #とは 「得意」 #とは
さて、ここで質問です。
「スキ」と「得意」の違いは、なんでしょうか。
「スキ」はなんとなく、自分がやりたいことや、趣味のことかな?と想像がつきやすいかもしれません。
では、「得意」の方はどうでしょうか。あなたにできることがでしょうか。それとも、人よりも秀でたことでしょうか。なかなか「これ!」というものは思い浮かびにくいかもしれません。
そこで、僕はこう考えます。
スキ:自発的にやろう・やりたいと思うこと
得意:やろうと思わなくてもやってしまうこと
どうでしょうか?
さらに言うと、「自発的にやろう・やりたいとは思わないけれど、言われればやる」というのは、義務だとか、どちらかといえば嫌い・苦手寄りのものになります。
今回は行動に限った書き方にしていますが、やっぱり「スキ」の方はピンと来るけれど、「得意」の方はイマイチかもしれません。
アニメが好きだから自主的に見る、漫画や小説が好きだから自主的に読む・または書く、料理が好きだから自主的に作る。これは充分「スキ」の範疇内で、なんとなく「わか〜るわ〜」となるでしょう。
何故「得意」は「やろうと思わなくてもやってしまうこと」なのか。それをこれから解説していこうと思います。
「スキ」と「得意」の大きな隔たり
ところで、僕はいわゆるサブカルチャーが好きなオタクです。アニメを見れば漫画も読むし、ゲームは正直あまり得意ではないのですがFGOをガンガンやるくらいにはFateシリーズにハマっています。
しかしこれらはあくまで「スキ」の範囲です。
どんなにアニメが好きでも、今季アニメを全制覇したりレビューをしたりしようとは思わない。というか実は映像媒体を見ること自体は苦手だったりします。
どんなに漫画が好きでも、際限なく買い集めることにはストップがかかるし言うほど手広く読んでいるわけでもありません。
FGOは好きだけど、基本的には攻略情報を参考にしてやっていますし、しんどければAPがあふれるのも気にしません。
僕にとってこれらの「好きなこと」は「よし、やろう!」と誰に言われたでもなくやるけれど、いついかなる時も、どんな状況でもやってしまうことではないのです。
しかし僕にはサブカルチャーに関連することで、「恐らくこれは、僕の得意なことだ」と感じているものがあります。
それは「分析」です。
例えば僕は最近、過去の特撮作品を見るのにハマっています。そういう時に出てくるロボットやアイテムに対して「放映当初はこのモチーフになっているものが出始めた時期なのかな?(キョウリュウジャーの獣電池など)」「変身アイテムがこれってことは、多分こういう感じで売り出されていたんだろうなぁ(ゴセイジャーのカードなど)」と、特に意識もせず考えています。
FGOでもそうで、似たような考えをする友人と「やっと型月が女性ユーザから金を搾り取ることを覚えやがった」「多分舞台は本当に女性中心のフィールドで成功するか試してるんだよ」などと語り合っているものです。ちなみに後者はキャメロットの時に言っていたのですが、実際バビロニアでは大阪公演も増えましたし、女性キャストをほとんど削らない脚本を持ってきましたね。
他にもキャストのバランスについてとか色々分析をしたのですが、まぁこの辺はわかる人だけわかっていただくことにして。
例で示したような分析を、僕はほとんど無意識に、自動的にやっています。オタク関係は友人ともよく話をするので特に顕著ですが、トラブルが起きたらその原因を考え、今はどういう状況かを考え、自分は何をするべきなのか延々と考え込んでいます。
なので僕は、考え、分析することが得意なことだと言えるでしょう。
どうしてもやってしまうことが、あなたを伸ばしていく
ここまで読んだあなたは、もしかしたら疑問を覚えるかもしれません。
そんなことを言っても、得意なことがよくできることだとは限らないのでは?
はい、ここが落とし穴です。
「得意」なことは、誰かより――あるいはあなたの持つ能力の中で最も――秀でたこと、よくできることを指す。その考え方がラクな生き方を遠ざけると言い切っても過言ではないでしょう。
それは、何故か。
だって、考えてもみてください。
あなたには、この世界で誰よりも優れた特技がありますか?
そしてもし、あなたが自分に全く自信を持てない人であったとしたら、自分の最も優れた能力について、適切に把握できるでしょうか。
この両方に「おうよ!」と気のいい返事を返せる人はいないと思います。何故なら新興宗教の教祖になってお布施で生活したい人の記事を読む人は圧倒的に自分に自信を持てない人が多いかと思いますし、そういう人は自分の能力をうまく把握できません。断言するのは、僕がそうだったからです。
また、自分の能力を適切に把握すればするほど、周囲との格差もよく見えてきます。仮にあなたがギネス記録保持者、あるいはオリンピック金メダルを取ったことがあるわけではない限り、世界で誰より優れているとは言えないはずです。
「できる」「できない」の軸で物事を考える場合、どうしても何かと比べた相対的な評価になってしまいます。
しかしそれでは、あなたの持ち合わせる才能や資質を見抜くには不完全です。だってあなたの才能というのは、誰と、何と比べるでもなく、既に優れているのですから。
また、無意識にやってしまうことである場合、そのことは結局、相対的に見ても優れていることが多くあります。
ほら、言いませんか? 「継続は力なり」。
自分で「やろう!」と思うまでもなくやってしまうことは、あなたが最も長い時間をかけてやっていることと同義です。
ですから無意識にやってしまうことこそ、「得意」と認識するべきなのです。
自然にやっていることは、ラクにつながる
この記事の最初で出した「好きなことを仕事にしてはいけない」について言及すると、要するにこういうことになります。
仕事は「どうしてもやらなくてはいけないこと」になってしまうので、無意識にやってしまう「得意」なことを選んだ方が負担が少ない。
けれど「スキ」かつ「得意」、つまり「自発的にやりたいことが、特に意識しなくてもやることと同じ」場合には、好きなことを仕事にするのが大正解なのです。
自発的にアニメを見るけれど、しんどい時には見たくなくなるようならアニメ関係の仕事をするのはラクとは言えません。
けれど、どんなに疲れていてもいつも自然とアニメのことを考える、自然に手を動かして描いている、という域に至れば、そのような道を歩むこともラクに生きるための視野に、充分に入っていきやすいでしょう。
これは世間一般で言うところの、例えば休みが多く取れるだとか裕福になれるだとか、そういう意味でのラクとは必ずしも一致しません。
あなたが自然とやっていることで仕事を含めた生活を満たしていけば、自然とラクに生きていけるということです。
この記事は進路相談でもキャリアアドバイスでもないので、仕事に関して言うのならもっと参考になるものを探してください。
しかし、「人から言われてやろうと思うのか、自発的にやろうと思うのか」という軸のほかに「自発的にやるのか、やろうと思うまでもなくやっているのか」という軸を考え方に持つことで、あなたがラクに生きるために必要なものがきっと見えてくるはずです。
「得意」にも落とし穴はある
さて、ここまでは「得意なことを把握すると、ラクに生きるための指針が見つかる」ということについて書いてきました。
まぁしかし法に穴があるように、何事にも落とし穴はあるもので、「得意」なことにも落とし穴はあります。法の締めつけほどキツキツではありませんが。
「得意」の落とし穴。それは、「それそのものは無意識にやることができるけれど、その結果としてついてくるものにスキでも得意でもないことがある」または「基本的には無意識にやることができるけれど、状況次第で義務感を覚えてしまう」場合です。
例えば僕は、就活の時に友人に聞きました。
「僕の長所ってなんだと思う?」
「うーん、面倒見がいいことかな」
なるほど、僕は年下の相手に対しては問答無用で庇護的です。どうすればその人のためになるかを自然と考えるし、サポートだって惜しみなくします。
なので僕は「マネージャーまでは無理でも、現場リーダーになって出勤ログボをあげたいな」と思うようになりました。
しかし僕は、私生活で7歳年下の妹と同居した結果、育児うつになってしまいました。
何故ならそれは、「面倒見がよすぎて自分からなんでもしてあげるのに、それが全く報われない状況になったから」です。
この辺りもまぁ色々あって、あまりに歳が離れすぎていてきょうだいなのにお互いの人となりがよくわからなかったり距離感が掴めなかったりだとか、僕はなんでも自分でやるタイプだけど妹はネゴシエーションが得意なタイプだとか、妹が大学生で多少なりとも親の干渉が免れなかったりだとか、不運が重なり育児うつに。
これは「基本的には無意識にやることができるけれど、状況次第で義務感を覚えてしまう」場合に該当します。僕が自然にできる「面倒を見ること」が、諸々の状況で「面倒を見なければならない」という義務感に変わってしまった結果の悲劇です。
このような事例もあるため、「得意」というのも万能ではありません。
しかしあなたがラクに生きることを考えた時、「無意識的に、気がついたらやっていることは何か」という視点は非常に重要な指針となります。
あなたの「スキ」はなんなのか、あなたの「得意」はなんなのか。
まずはそれを考えてみることから、はじめてみましょう。
以上、新興宗教の教祖になってお布施で生活したい人のありがたい(かもしれない)話でした。お布施と信者は随時募集中です。プロフィールにほしいものリストがあるので、貢ぎ物をしたい方はそちらをご確認いただけますとと幸いです(更に推しの活躍が見たくて一部書籍も自分で買いました。てへぺろ)。
また、Twitterに新興宗教シリーズを始めとしたnoteの公開をするための専用アカウントをはじめました。更新の告知やちょっといい話などをしていけたらと考えていますので、よければ覗いてみてください(記事の末尾に掲載しています)。
本日の説教はこれにて終了、あるかもわからない次の説教でお会いしましょう。
ご清聴まことにありがとうございました。