『鉛の時代』:その後のイタリアを変えた55日間、時代の深層に刻み込まれたアルド・モーロとその理想 Part1.
8月9日からBunkamura ル・シネマ渋谷宮下を皮切りに、全国で順次公開される「Esterno notteー夜の外側 イタリアを震撼させた55日間」は、イタリアの人々の深層心理に横たわる、共有された悲劇としての「アルド・モーロ誘拐・殺害事件」が再構成された、巨匠マルコ・ベロッキオ監督の最高傑作です。
1978年から46年もの間、根気よく、細部にわたって緻密に調査され続けてもなお秘密が漂う「モーロ事件」を巡る、周囲の人々の心理、残酷な事実に、創作されたフィクションが入り交じる劇的な370分が、人間という存在の悲劇性を浮き彫りにする。
そこで、その後のイタリアを変えたと言われる『モーロ事件』が起こった1978年、3月16日からの55日間を、現在一般的に語られる仮説に沿って、一気に彷徨ってみようと思います。
レオナルド・シャーシャは、ボルヘスの『伝奇集(FiccionesーFictions)』の一節を引用し、事件の3ヶ月後に上梓した、その著書『L'Affaire Moro(モーロ事件)』を、真実が隠された「推理小説」と位置づけました。
実際、その小説には、やがて事件を巡る無限の情報がひしめくコスモスへと発展する、数多くのコードが散りばめられていますが、事件の真実がいまだ明らかにならない現在においても、イタリアのひとつの時代を包括する文学であるには違いありません。
そういうわけで、あまりに僭越ではありますが、司法が下した裁きと、その後の捜査に齟齬があるまま、46年もの月日が経過した現代を生きるわたしもまた、この投稿をある種のフィクションと位置づけてみようと思います。
イタリアのダラス、9.11と言われる『アルド・モーロ事件』が両者と決定的に違うのは、「55日間もの誘拐」という長期にわたって継続した、理不尽な悲劇に社会全体が巻き込まれ、消えることのないトラウマとして時代に刻み込まれたことでしょう。次々に届く『赤い旅団』からの不穏な犯行声明、モーロの渾身の手紙、日々押し寄せる扇情的なニュース、対する政府の頑なな沈黙と拒絶。1978年3月16日、警護官5人の方々の衝撃的な惨殺とともにはじまった、当時のイタリアにおける最重要人物である『キリスト教民主党』のリーダー、アルド・モーロ元首相誘拐の期間、警察、軍部が街中に溢れかえる重苦しい日常に、イタリアはそれまで経験したことがない、異様な緊張に直面したのです。
十字架につけよ
「おまえたちは、だれを許してほしいのか。バラバか、それとも、キリストといわれるイエスか」。彼らがイエスを引きわたしたのは、ねたみのためであることが、ピラトにはよくわかっていたからである」。(中略)総督は彼らに向かって言った。「ふたりのうち、どちらをゆるしてほしいのか」。彼らは「バラバの方を」と言った。ピラトは言った、「それではキリストといわれるイエスは、どうしたらよいか」。彼らはいっせいに「十字架につけよ」と言った。
しかし、ピラトは言った、「あの人は、一体、どんな悪事をしたのか」。すると彼らは一層激しく叫んで、「十字架につけよ」と言った。ピラトは手のつけようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の前で手を洗って言った、「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちが自分で始末をするがよい」。すると民衆全体が答えて言った。「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」。そこでピラトはバラバを許してやり、イエスをむち打ったのち、十字架につけるために引きわたした(マタイによる福音書:27章、17~18節、21~26節)
国中を緊張に陥れ、その後のイタリアの方向性を大きく変えることになった『モーロ事件』の55日間を追いながら、何度も脳裏をよぎったのは、『新約聖書ーマタイの福音書』に描かれた、この「キリストの磔刑」のシーンでした。
これは「祭のたびごとに、総督は群衆が願い出る囚人ひとりを、ゆるしてやる慣例になっていた(マタイによる福音書:27章、15節」)」ため、ピラト総督が民衆に、悪評高い囚人バラバと「無実」のイエス、いずれの磔刑を「ゆるすか」と尋ねると、イエスの「血の責任」が「自分たちと子孫の上に降りかかえってもよい」と、ためらうことなくバラバを選んだ民衆が、口々に叫ぶ場面です。
前項で書いたように、アルド・モーロは冷戦下における西側諸国ではじめて、自らがリーダーを務める『キリスト教民主党』が中核となる政府に、『イタリア共産党』の外部からの政府参画(Apoggio esterno)をデザインした人物です。
当時の『イタリア共産党』は、ソ連から距離をとりながら、武装革命の旗を降ろし、民主主義下における独自の「ユーロ・コミュニズム」で穏健路線をアピール。1976年の国政選挙では『キリスト教民主党』と勢力を二分するほどの高い支持を誇る、欧州で最も強い勢力を持つ共産主義政党に大躍進していました。と同時に、米国をはじめとする西側諸国から、強く警戒される存在であったことは言うまでもありません。
モーロは『冷戦』という国際緊張下、国内外からのあらゆる脅迫、妨害を乗り越え、『イタリア共産党』党首、エンリコ・ベルリンゲルと長い話し合いの末、連帯して政府を構築するための「歴史的妥協」を結ぶことに成功。それは、「国よりも人」と言い続けたモーロが理想とする「完結した民主主義」を実践するためでもありました。
その過程でモーロは、西側諸国の重鎮から「共産党の政府参画は、あなたの死を意味する」(マウロ・スカルドヴェッリ)と耳打ちされる、という不穏な出来事にたびたび遭遇しながら、同時に『キリスト教民主党』、そして『イタリア共産党』内の多くの反発という課題を抱えつつ、下院議会における信任投票前日の深夜まで、『歴史的妥協』に誠実に向き合い、調整に心を砕いていたのです。
なお現在では、そのモーロのデザイン通り、外部参画ではあっても『イタリア共産党』が政府の一端を担う勢力として、その連立を持続、発展させることができれば、イタリアが10年早く『ベルリンの壁』になっていた可能性もある「野心的な国際的実験であった」とも言われています。
しかしながら、その『歴史的妥協』に基づく第2次ジュリオ・アンドレオッティ内閣の信任投票が行われる予定だった1978年3月16日、まさにその日の朝、信任を控えた議会へ向かうためにファーニ通りを通過中、モーロを乗せた車と警護官を乗せた車2台は、極左武装グループ『赤い旅団』に襲撃されることになった。
朝9時2分、突然はじまった銃撃からたった120秒の間に、下院議会へ向かう『キリスト教民主党』リーダーの傍、2台の車に分乗していた武装警護官5人の方々が次々に惨殺されました。それはハイレベルな軍事訓練を受けたスーパーキラーが存在していた、としか思えない完璧なオペレーションでもあり、モーロが『旅団』に連れ去られたその瞬間から、イタリアはかつて経験したことがない、現実離れした恐怖と緊張で凍てついたのです。
なお、『モーロ事件』を追いながら、わたしが「キリストの磔刑」の、このシーンをたびたび思い出すのは、冷戦下、『フォンターナ広場爆破事件』からはじまり、テロの嵐が吹き荒れる『鉛の時代』を突き進んでいたイタリアで、大極を見据えた壮大な政治実験である「歴史的妥協」をデザインしたアルド・モーロを、聖人化したいからではありません。
むしろ、『キリスト教民主党』に激しく敵対したピエール・パオロ・パソリーニやレオナルド・シャーシャのように、その政党のリーダーであったモーロという人物が、戦後のイタリアの急激な産業化から生まれた社会の歪み、貧富の格差、環境破壊について「まったく責任がなかった」とは言い切れないだろう、とも思っています。
また確かに、誘拐された55日の間にモーロが書いた手紙には、福音書のこの箇所を彷彿とする記述(後述)が認められ、モーロ自身が、その運命を福音書に投影したのだろうとも推測されます。しかし何より、「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」と民衆が口々に叫んだ言葉が、モーロの誘拐と同時に、国粋主義的に大上段に構え「テロとの戦争」を宣言し、「テロリストとの交渉には断じて応じない(Fermezza)」と、頑なにモーロの解放に向けての交渉を拒絶したジュリオ・アンドレオッティ政権、『キリスト教民主党』、『イタリア共産党』、そしてその拒絶を強く支持した主要メディアの有り様に重なるからです。
一方、モーロ解放に向け、著名文化人たちの署名を募り、『赤い旅団』に譲歩を呼びかけたメディアは、皮肉にも、パソリーニ、シャーシャ同様、モーロをリーダーとする『キリスト教民主党』を、戦争中のファシズムの流れをそのまま汲む政党と見なして、「最大の敵」と攻撃し続けていた極左グループ『継続する闘争ーLotta Continua』、そして『イタリア共産党』の「ブルジョア化」を糾弾して脱退したグループが形成した極左グループ、『イル・マニフェストーIl Manifesto』が発行する新聞だけでした。
そもそも、各主要メディアの『赤い旅団』に関する評価は、創立メンバーであるレナート・クルチョ、アルベルト・フランチェスキーニが逮捕される74年あたりまでは、善とも悪とも断定しない、曖昧なものにとどまっていたそうです。まず、74年に起こした『マリオ・ソッシ司法官誘拐事件(『赤い旅団』創立メンバーが核となった犯行で、ほぼ1ヶ月の監禁ののち、司法官を解放)』までは、極左グループの中でもマイノリティであった『赤い旅団』は、メディアから大きな注目を浴びることもありませんでした。
しかしそれがなぜ、『モーロ事件』においては、各主要メディアが揃いも揃って、モーロの救済を否定する政府の交渉の拒絶に同調したのか。
それは、攻撃ターゲットが多国籍企業から国家の心臓部へ向かい、幹部が総替わりした75年を境に、やにわに凶暴化しはじめた『旅団』が、主要メディアを「プロレタリアートの敵」と見なし、国営放送Rai(エミリオ・ロッシ)やスタンパ紙(カルロ・カッサレンニョ)の著名ジャーナリストたちを次々に殺害。数多くの殺傷事件(ガンビッザツィオーネー足を狙って障害を残す独特の射撃ーインドロ・モンタネッリ)を起こすなど、犯行をエスカレートさせたのが最も大きな要因です。それ以降主要メディアは、テロで「報道の自由」を脅かす『赤い旅団』は「決して許されない」と一斉攻撃へと舵を切っています。
しかしながら、現代のイタリアであれば当たり前に主張されるであろう、「何としてでもモーロの命を救うべき、相手がテロリストであろうと、マフィアであろうと、ひとりの人間の生命のためには、あらゆる交渉を受け入れるべきだ」という、人道的な論調の記事が、当時の新聞からまったく見つからないことを、異常に感じるのも事実です。
そしてこのように考えるのは、「モーロが国家の最重要人物であるから」ではなく、「人の生命は国よりも大切」と言い続けたモーロの理想を、『民主主義』を盛んに謳う、当時の主要メディアが完全に否定しただけでなく、戦後「死刑」を廃止したイタリア共和国の理念、そしてキリスト教的倫理観からも、かけ離れた現象だからです。レオナルド・シャーシャは事件の間、「(人民刑務所に囚われた)モーロを、元気づけるような新聞記事がひとつもなかった」ことを糾弾しています。
現代のイタリア政府ならば、たとえば外国で、テロリストに拉致されたボランティアの女性や、ジャーナリストを救うために、国内外のシークレット・サービスを含むあらゆる外交ルートを駆使して根気よく交渉し、秘密裡に身代金を支払ってでも、人質解放に向けて最善を尽くします。というより『鉛の時代』であっても、『モーロ事件』以外の誘拐・人質事件において、政府は人命救助のために動き、メディアも政府に同調する記事を掲載していますから、『モーロ事件』における政府、主要メディアの対応は、異例中の異例としか言いようがありません。
ともあれ、いまだに多くの疑惑が残る、モーロの誘拐現場となったファーニ通りの惨劇は、スマートフォンで瞬時に記録を残すことができる現代では、起こりえない現象ではありましょう。現代なら、銃声が響いたその瞬間に、通行人や周囲の建物の住人など、全方向からビデオが撮影されると同時に、一斉にSNSで拡散され、その場に誰が存在し、何が起こったかが即刻判明するはずですから、もはや『モーロ事件』のように、43年が経過したのちもブラックホールになったままの「歴史の空白」が生まれることはありますまい。
さて、この『モーロ事件』に関して、「この事件の秘密が明かされ、解決することがなければ、イタリアは歴史を紡げない。われわれは、この事件を決して忘れてはならないのだ」と、40年を超える歳月をかけ、夥しい数の検察官、裁判官、歴史家、ジャーナリストたちによる、たゆみない調査が行われ、無限の情報がひしめく、ひとつの宇宙が形成されていることには幾度となく触れてきました。
オンタイムに事件を知らない若い世代を含める人々が、この「その後のイタリアを大きく変えた」と言われる『モーロ事件』にのめり込み、全容を明らかにしようと、今この時も、新たな情報収集と分析、証言、仮説を増殖させ続けているのです。また、『モーロ事件』がもたらす歴史的意味を問う「イタリアを大きく変えた」、という表現が使われるたびに思うのは、では具体的に、この事件はイタリアの何を変えたのか、ということでもあります。
もちろん、この問いには研究者それぞれに答えがありますが、最も一般的でシンプルな答えとしては、1960~70年代、イタリアにおける国政選挙の投票率が93%を超えた時代、その市民の選択こそが、全面的に政治に反映されなければならない、と「完結した民主主義」を誠実に目指したアルド・モーロの理想が、市民の目前で暴力的に崩壊したとき、人々は政治に興味を失った、という見方でしょうか。
とはいえ、確かにイタリアの投票率は40年前に比べてぐんと減ってはいても、たとえば2018年のイタリア国政選挙では約73%の投票率でしたから(ジョルジャ・メローニ政権下の2024年の欧州選挙では、イタリア史上はじめて50%を切る投票率となってしまいましたが)、人々の信頼が完全に政治から離れた、とは言いがたいかもしれない、と外国人であるわたしには思えます。また、事件を追っていくにしたがって、むしろ『モーロ事件』をきっかけに政治に興味を失ったのは、市民のみならず、市民に興味を失った権力者たちなのではないか、と思うようにもなりました。少なくとも『鉛の時代』以後、世代交代が起こるまでは、その傾向が顕著だったと考えます。
いずれにしても、『モーロ事件』を俯瞰することで、巡る世界に形を変えながら厳然と存在する、全容を見通すことが不可能なパワーバランスと、その背景となる利権、そして国というローカル政治の関係性が、なんとなく浮き上がってくるようにも思います。
そういうわけでこの項は「アルド・モーロとは誰だったのか」「ブラックホールとなった1978年3月16日」の続きとして、Part1、Part2と2部で構成。まずは概要から、そして「イタリアを変えた55日間」を時系列でたどっていくつもりです。
※この投稿は前回同様、レオナルド・シャーシャの『L’Affaire Moro(モーロ事件/1978年)』を中核に、マルコ・ダミラーノの『Un Atomo di verità(真実の核心/2018年)』、コラード・グエルゾーニの『Aldo Moro/2008年』に加え、セルジォ・フラミンニの『Patto di omertà(沈黙の合意/2015年)』、ロッサーナ・ロッサンダ、カルラ・モスカによる『旅団』幹部マリオ・モレッティのインタビュー『Brigate Rosse(赤い旅団)ーイタリアの物語/1994年』
エンマニュエル・アマーラによる、事件の期間にイタリア政府タスクフォースと共同で作戦を練った、当時、米国のアンチテロリストのスペシャリストであったスティーブ・ピチェーニックのインタビューを含む『Abbiamo ucciso Aldo Moro(われわれがアルド・モーロを殺した/2008年)』、事件の担当検察官ロザリオ・プリオーリ、シルヴァーノ・デ・プロスペーロによる『Chi manovrava Brigate Rosse(誰が赤い旅団を操っていたのか)/2011年』などの書籍を参考にしました。
さらに上院下院議員で構成された第3回『政府議会事件調査委員会』が2017年に全公開した資料、その委員長で下院議員のジュゼッペ・フィオローニの講演、さらにネットに参考資料をアップしている、副委員長の下院議員ジェーロ・グラッシの講演、各種ドキュメンタリー、『赤い旅団』メンバーのインタビュー、La7のスティーブ・ピチェーニックのインタビュー、ミゲール・ゴトール監修、分析の『Lettere della prigionia(獄中からの手紙)』なども参照しています。
なお、『夜よ、こんにちわ』で『赤い旅団』メンバーの視点で『モーロ事件』を追ったマルコ・ベロッキオ監督は、次作は事件を外からの視点で捉え、再び『モーロ事件』に迫る予定だそうです。どのテーマが核に据えられ、誰の視点で描かれるのか、今から楽しみにしているところです(2024年追記:マルコ・ベロッキオ監督の『モーロ事件』を巡る、6つのストーリーのオムニバス『Esterno Notte(夜の外側)邦題:「夜の外側 イタリアを震撼させた55日間」は、イタリアでは22年に劇場公開、さらにはRaiで放映されました。日本では23年にイタリア映画祭で放映され、今年2024年8月9日からは、Bunkamura ル・シネマ渋谷宮下を皮切りに、全国で順次公開予定です。
※2003年に公開されたマルコ・ベロッキオ監督の『Buongiorno Notte(夜よ、こんにちわ)』は、イレギュラーな『旅団』メンバーであった、アンナ・ラウラ・ブラゲッティの視点から『モーロ事件』が捉えられましたが、そのリヴァース・ショットとなる『夜の外側』では、事件を巡る周囲の人々の複雑な心理、祈り、焦燥、狂気がオムニバスで描かれています。
Part1. ❷演出された55日間 ❸矛盾 ❹シグナル ❺エキスパートの参入 ❻市民に秘密はない ❼ヴァチカン
Part2. ❶ボローニャの降霊会 ❷悲劇の共有 ❸死刑宣告 ❹偽の声明 ❺わたしの血 ❻パレスティーナ ❼フィナーレ
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