1943年:日本での壮絶な2年間を描いたダーチャ・マライーニの新刊「Vita mia(わが人生)」
「いつかは書かなければ、と思いながら、その記憶を辿ることが、あまりにも辛く苦しく、途中で何度も休まなければなりませんでした。しかし世界中に、あらゆる形の暴力と憎悪が再び溢れる今、それを証言しなければならないと思ったのです」プレゼンテーションでそう語った、ダーチャ・マライーニの新刊「Vita mia(わが人生/Rizzoli、2023)」には、当時6歳だった少女が、両親、ふたりの妹とともに連行された、大日本帝国の捕虜収容所における、極限ともいえる凄まじい2年間(1943年~1945年)が描かれています。こんなことがあったなんて!と読み進めるうちに、悲しさと同時に強い無力感に襲われ、「(わたしをも含める)人間とは、このまま未来永劫、学ばない動物なのではないのか」という疑問、「思想、領土、謂れのない優越性の刷り込み、錯覚で、際限なく残酷に振る舞う人間とは、なんと愚かしいのだろう」との気持ちが湧き上がり、それは今も続いています。
ダーチャ・マライーニの作品は、日本語でも数多く翻訳されていますから、多くを語る必要はないと思われますが、イタリア現代文学において、紛れもなく最重要である作家、劇作家、詩人のひとりです。60年代から70年代にかけ、アルベルト・モラヴィアのパートナーでもあったマライーニは、ピエール・パオロ・パソリーニとも深い友情の絆で結ばれ、モラヴィア、パソリーニと共にアフリカ、インド、イエメンなど世界中を旅した経緯があり、2022年にはエッセイ、「Caro Pierpaolo(親愛なるピエール・パオロ)/Neri Pozza」を上梓しています。
「わたしが育った文学界、そして芸術界は、(現在より)もっと団結していて協力的だった。一緒にいることが喜びだったからこそ、わたしたちは集まっていたんです。ローマのカフェ・ロザーティやフィレンツェのル・ジュベ・ロッセなどが当時の好ましい場所でした。ラファエッレ・ラ・カプリア、イタロ・カルヴィーノ、ピエール・パオロ・パソリーニ、ルキノ・ヴィスコンティ、フェデリコ・フェリーニと一緒に、安いトラットリアで食事をしたものです」(コリエレ・デッラ・セーラ紙インタビュー/2016年)
このインタビューの際、「大きな緊張があり、人々が権力や社会・政治に従属するだけでなく、倫理的な問題を自らに問うた68年直後、パソリーニが生きていた70年代が、最も戻りたい時代」と答えていたダーチャ・マライーニが、フォスコ・マライーニの娘であることは、もちろん知っていました。しかし今までは「暴力的な革命エネルギーがイタリアに満ちた『鉛の時代』に、その強烈なエネルギーを作品として昇華した偉大なジェネレーションの作家のひとり」という印象を強く抱いていたため、マライーニ一家を襲った、戦中の捕虜収容所での過酷な体験を知っていながら、この作家とその体験を、直接的に結びつけることはなかったのです。したがって「Vita mia(わが人生)」を読んではじめて、「なんと多くの人生を生きた女性なのだろう」と感慨を新たにした、と言わねばなりません。
そして、世界中に根深く蔓延るミソジニーと闘い、アフリカの女性たち、難民の人々など、社会で最も弱い立場にある人々に常に寄り添ってきたマライーニの原点は、鋭い感受性を持つ幼い少女が、戦時中の日本で市井の人々と共に過ごした幸福な4年間、その後訪れた「死と背中合わせ」の捕虜収容所での2年間という、対極の体験にあったのだ、と改めて感じました。4、5年前に一度だけ、パソリーニを巡るイベントで、マライーニの講演を聴いたことがありますが、1936年生まれとは決して思えない、よく通るみずみずしい声で語る、明晰で公正、きっぱりとした分析とその主張に、揺るぎはまったくありませんでした。
ところで、ダーチャの父親であるフォスコ・マライーニは、重要な文化人類学者、東洋学者、写真家、山岳家、詩人であり、日本語で書かれたイタリアに関する優れた著作に授与される「フォスコ・マライーニ賞」が存在するほど、日本、及びチベットなどの東洋研究に大きな実績を残した多才な人物です。
とりわけ「昭和」という時代を、戦中戦後、戦後復興期、70年代という時間軸で旅をしながら考察・分析した記念碑的エッセイ、「Ore Giapponesi(随筆日本)」は、イタリアでは何度も改訂再出版される、われわれの世代が知らない、あるいは忘れつつある日本を、エネルギッシュなイタリアの知識人が捉えた貴重な一冊でもあります。またフォスコ・マライーニは、イタリアにおける「アイヌ研究」の第1人者であり、個人的な思い出としては、イタリアに来てすぐに知り合った年配の方が、アイヌの人々の伝統に(わたしよりも断然)詳しくて驚いた、という経緯がありました。「なぜそんなに詳しいのか」と聞くと、「フォスコ・マライーニの本で読んだのだ。日本という国は奥が深くて素晴らしい」との答えが返ってきて、その時はじめて、この文化人類学者の名前を知ることになったわけです。
なお、「Ore Giapponesi(随筆日本)」にも、「Vita mia(わが人生)」と同じテーマである、マライーニ一家の日本における捕虜収容所での凄惨な体験が端的に、力強く描かれていますし、ダーチャの妹である作家トーニ・マライーニもまた、母親であるトパツィア・アリアータの当時の日記をもとに「Ricordi d’arte e prigionia di Topazia Alliata(トパツィア・アリアーテの芸術と投獄の記憶/2003)」を出版しています。
さらにはトーニの娘ムジャ・マライーニ・メレヒはその軌跡を辿るドキュメンタリー「HAIKU ON A PLUM TREE(梅の木の俳句)」を発表しており(音楽/坂本龍一)、マライーニ家の人々がそれぞれの視点、感性、表現で、日本における捕虜収容所での家族のトラウマを「作品」として残しているのは興味深いことです。つまり、書く、あるいは撮る、という表現=カタルシスとして「かたをつけなければならない」ほど、マライーニ一家に深い傷を残したということでしょう。
このように、家族のトラウマとなった捕虜収容所の極限状態を経てもなお、日本の文化を愛し続け、何度も訪日したフォスコが、写真に撮り続けた農民の青年や海女の少女、アイヌの部族など当時の日本を「生きた」、自信に満ちた人々の美しい表情には魅入られます。はたしてわれわれは、彼らのように作為なく、自らの本能から湧き上がる力強い表情で生きているのだろうか、と疑問と不安を覚えるほどです。
さて、2歳の時に札幌を訪れ、日本の学校に通い、日本文化の中で育ったマライーニ姉妹は、市井の人々の間で何の違和感もなく、皆から過剰なほどに可愛がられて育った経緯から、自分の祖国は日本だとも思っていたそうです。俳句を覚え、輪廻を信じる日本文化に触れ、仏壇に死者を祀って死者とともに暮らす日本の生活、昔話を自然に受け入れて暮らしていました。そんな緩やかな毎日は、ある日突然に一変することになります。
これからざっと、印象に残った部分を要約するマライーニの最新刊「Vita mia(わが人生)」は、少女の目が捉え記憶に刻んだ、収容所の看守である特高警察のいびつで陰険な残虐性、両親、他のイタリア人たちの痛み、苦しみ、戦時下における「軍国主義」「全体主義」の不条理な愚行の羅列としての単なる年代記にとどまらず、成熟した知識人の経験、文化、分析が各章に絡み、やがて「人間」「生命」「死」という大きなテーマへと導きます。
なお、詩的な箇所や、後年ダーチャ・マライーニが通い詰めたアウシュビッツのこと、両親の家族の系譜、ルース・ベネディクト「菊と刀」などの文献を参考にした日本文化に関する分析、戦後帰国して暮らしたシチリアでの体験、日本におけるファシズムの分析などは、いずれ日本で翻訳されるに違いない、と考えて、詳細を追うことはしませんでした。それぞれの家族が出版した本の詳細と、いくらか違う部分もありますが、当時のダーチャの記憶にしたがって、進めていきたいと思います。
また、このサイトに寄稿してくださっている二宮大輔氏が「日本に抑留されたイタリア人フォスコ・マライーニ」と題した記事を、2015年、イタリア文化会館発行の「コレンテ」に書いてらっしゃるので、ぜひそちらも合わせてご覧ください。
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