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『鉛の時代』: 「蛍が消えた」イタリアを駆け抜けた、アルド・モーロとは誰だったのか

2023年のイタリア映画祭で「夜のロケーション」として公開された、巨匠マルコ・ベロッキオ監督の超大作「Esterno notte(2022年)」が、「夜の外側 イタリアを震撼させた55日間」のタイトルで、8月9日からBunkamura ル・シネマ渋谷宮下を皮切りに、いよいよ全国で順次公開されます。

この映画はカンヌ国際映画祭で初公開されたのち、まず短期間、2部に分けられ劇場公開されたあと、国営放送Raiでも放映され、「最高傑作!」と絶賛されました。また、イタリアのオスカーと呼ばれるダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞では、17部門で18ノミネートされたのち、監督賞、主演男優賞など4部門を受賞しています。

ベロッキオ監督によって2003年に撮られた「夜よこんにちわ(2003年)」同様、「夜の外側」もまた、「アルド・モーロ誘拐・殺害事件」がテーマになっていますが、前作が犯人である「赤い旅団」の視点から語られたストーリーであったのに対し、本作はモーロ事件の周囲にいる人々の思惑、祈り、焦燥に焦点が当てられたリバースショットでもあり、まるで壮大なフレスコ画のように、絢爛で重厚な作品です。

アルド・モーロは、現代に近づくほどにその重要性が再認識される、戦後から冷戦下までのイタリアを牽引した、異色の、そして最重要とされる政治家のひとりです。そのモーロを失った衝撃は『鉛の時代』の大混乱を頂点に導き、イタリアの歴史を変えた、とも言われます。また、その1978年に起こった事件に関する捜査は、現代に至るまで絶え間なく継続し、一生かかっても読み切れないほどの夥しい数の書籍、報道、ドキュメンタリーが発表され続けます。

このように、この事件の背景は著しく複雑なため、多少の予備知識があったほうが、細部の微妙な演出が体感でき、映画の世界により深く、共感しながら鑑賞できるのではないか、とも思う次第です。

そういうわけで、これからしばらくの間、イタリアの国家的悲劇となった「アルド・モーロ誘拐・殺害事件」を追った記事を再投稿しようと思います。

まずは、そもそもアルド・モーロとはいったい誰だったのか、を探ります。

イタリアにおけるモーロ事件の意味

1978年に起こった『アルド・モーロ誘拐・殺害事件』は、イタリアの「ダラス」、あるいは「9.11」として、イタリアの近代史における大きな転換点となった事件と言われます。今のイタリアからはまったく想像できない、常軌を逸したテロが、凄まじい勢いで荒れ狂った『鉛の時代』。その悲劇は55日もの間、イタリアの社会を恐怖と緊張に陥れ、人々を絶望の淵に突き落としました。のち、犯人たちは逮捕され、司法で裁かれましたが、事件の詳細の辻褄が合わず、現代に至るまで全方向から調査が継続されるとともに、アルド・モーロという人物が、イタリアにとって、どれほど重要な人物であったかが、繰り返し語られることになります。その事件の重大さを理解するため、アルド・モーロとはいったい誰で、何をしようとしていた人物であったかを、まず知っておきたいと思います。

イタリアにおける『鉛の時代』に起きたそれぞれの事件に関して、夥しい数のジャーナリストや研究者たちがひたすらリサーチし続け、書籍、映画、芝居、ドキュメンタリー、TVプログラム、講演、講義として、次々に発表される事実については、以前の項でも幾度となく触れてきました。

そのなかでも、ひときわ群を抜いているのが、何といっても『アルド・モーロ誘拐・殺害事件』なのですが、まさに無限を彷彿とする、尋常ではない情報の多さで、ロックダウンをものともせず、絶え間なく書籍が出版されるのみならず、ネット上にも動画がアップロードされ、「それらすべてを網羅するには一生でも足りない」と意気消沈します。

わたし自身、少しずつではあっても、数年前から『アルド・モーロ事件』関連の書籍を読んだり、ドキュメンタリーや動画を見はじめたにも関わらず、その情報が、まるで有機体であるかのように留まることなく増殖するため、「これじゃ追いつかない」と焦燥に駆られる次第です。

このように、『アルド・モーロ事件』の背景に、ひっそりと息をひそめる不条理という底なしの闇を、白日の下に晒そうと徹底的にリサーチを重ねる人々の情熱は、ただごとではありません。それもジャーナリスト、研究者に留まらず、検察官、裁判官、政治家、大学教授、作家、歴史家、と老若男女を問わず、それぞれがそれぞれの視点で、まるで昨日の出来事のように事件を追い、細部を調べ上げ、その意味を世に問うのです。


いずれにしても、もはや46年前という遠い過去の事件であり、すでに犯人とされる者たちは司法で裁かれています。それにも関わらず、その事件をオンタイムに経験していない世代を含め、多くの人々が追い続け、政府議会では「事件調査委員会」が繰り返し形成され続けるわけですから、その執念には頭が下がるとしか言えません。

と同時に、アルド・モーロを衝撃的に喪失した事実が、イタリアにとっては決して忘れてはならない、重要なテーマを孕んでいることは疑いようがなく、言い換えれば、このテーマを解読しなければ、イタリアの現代は理解できないのではないか、とも思うのです。

そういうわけで、先で追う予定にしている事件の詳細を前に、当時、イタリアの戦後の政治を掌握した、『キリスト教民主党』(現在は消滅)のリーダーであったアルド・モーロという人物が、いったい誰で、何を考え、何をしようとしていた人物なのか、総体として知っておきたいと思います。


60年代のアルド・モーロとお嬢さま。ビーチに出かけても、いつもきちんとしたスーツ姿だったことは、今でも語りぐさとなっています。

なお、『アルド・モーロ誘拐・殺害事件』は、極左武装集団『赤い旅団』を、血に飢えた狼の群れ、狂気のテロリスト集団として、はじめて世界に名を轟かせた重大事件です。以前の項に書きましたが、創立メンバーである3人の若者たち、レナート・クルチョ、アルベルト・フランチェスキーニが逮捕され、マラ・カゴールが銃撃され亡くなったのち、マリオ・モレッティが執行幹部となった76年から、『赤い旅団』は大きく変質しています。

74年に企てたマリオ・サッシ誘拐事件で、『旅団』の要求を退けた司法官フランチェスコ・ココを、その報復と称して殺害した76年からは、一切タブーが無くなり、影響力のあるジャーナリストや弁護士の脚に銃弾を打ち込んで、一生歩けないようにする「ガンビザッツィオーネ」を多発するなど、『旅団』は次第に凶暴化。ターゲットを国家の心臓部に向けはじめました(参考▶︎『赤い旅団』の誕生フェルトリネッリ出版と『赤い旅団』『赤い旅団』の変質と77年学生運動)。あわせて、スターリニストを標榜する他の極左グループ(『マニフェスト』、『継続する闘争』、『ポテーレ・オペライオ』など)と大差がない、つまり小規模な放火騒ぎ、誘拐を繰り返してはいても、殺人に手を染めることはなかった『赤い旅団』が、普通の学生までが拳銃を手に荒れ狂った77年学生運動あたりから、堰を切ったように過激になるにつれ、学生たちから喝采が湧き、大きな支持を集めています。実際、『モーロ事件』の犯行メンバーとなった多くは、ボローニャ大学での大集会などでリクルートされ、77年に『旅団』に参加した若者たちです。

ちなみに、現在ネット上で公開されている、『赤い旅団』のメンバーたちの、当時の取り調べの経緯やインタビューを見たり聴いたりすると、執行幹部はともかく、その他は学生政治集会でよく見かける普通の若者たちのようでもあり、とても「血に飢えた、凶悪なテロリストたち」とは思えない、拍子抜けするような単純さです。
もちろん、彼らが事件の中核にいたことに疑いの余地はなく、さらにグループの幹部であった人物たちは事件を巡る真相語ってもいない、と思われますが、それにしても彼らの発言の数々は、あまりに日常的幼く感じます。立居振る舞いも意外に礼儀正しく、彼らが犯した罪を知らなければ、むしろ世間知らずな善人と呼べそうな若者たちでもある。
つまり、折に触れ、いかにも邪悪そうな人相のモノクロの写真とともに報道される、陰惨な「テロリストたち」という一般化されたイメージとはギャップが甚だしい、というのが正直な感想です。
78年の3月16日の事件当時、アルド・モーロを護衛していた警察官、カラビニエリ5人の方々が、数十秒のうちに次々に射殺され、時代を大きく動かす55日間の誘拐という、国家的悲劇がはじまったファーニ通りの現場には、現在、「確かに『赤い旅団』もいた」という表現(つまり他の何者かの関与があった)が定説となり、2018年の政府議会事件調査委員会のメンバーたちも、そう発言しています。『モーロ事件』を『赤い旅団』が単独で起こした事件だと考えているのは、わたしの知る限りでは、歴史家のアレッサンドロ・バルベーロぐらいでしょうか。

前述したように、のちに逮捕された、当時の執行幹部マリオ・モレッティをはじめ、バルバラ・バルセラーニ、ヴァレリオ・モルッチ、アドリアーナ・ファランダらは簡単に自白し、司法で裁かれ服役もしていますから、確かにオフィシャルな犯人は『赤い旅団』であるには違いありません。
ただ、歴史を変えるほどの重大事件を起こしたにしては、あまりに受刑期間が短く、創立メンバーであるクルチョ、フランチェスキーニが、殺人を1度も起こしたことがないにも関わらず、20年近く収監されたのに対し、事件を起こしたメンバーは数年で出所して、今も自由を謳歌している、という状況には、誰もが疑問を呈しています。
事件から46年が経った現在、『赤い旅団』による単独の犯罪とされた、この事件の背景は、ほかの『鉛の時代』に起きた事件の数々と同様に、国家の中枢、SIFER、SIDら軍部、内務省諜報、『秘密結社ロッジャP2』、CIA、NATO、KGB、モサドなどの国際諜報、マフィアが網の目のように絡まる、謀略のモザイクとして、パズルのように解き明かされようとします(dietrologia)。しかし、証拠が上がらず、どうしても明らかにならない箇所がいくつも残るのです。
もちろん、それぞれのリサーチ、着眼点は確かに興味深く、納得する部分もあります。それに、事件のあらゆる側面に手がかりが残されているにも関わらず、物語が複雑すぎて全体が見えない、決着のつかない謎を追うことは、わたしを含める人々を夢中にもします。しかしながら、あれこれと情報を集めるうちに、ただ謀略の断片のみを追いかけるだけでは、事件の本質は見えてこないのではないか、と考えるようにもなりました。
そこで、レスプレッソ誌主筆であり、近代歴史家(2024年時点では、国営放送Rai3へ移動)でもあるマルコ・ダミラーノの『Un atomo di verità(真実の核心ーアルド・モーロとイタリア政治の終焉/2018年)』をガイドに、レオナルド・シャーシャの『Affaire Moro(モーロ事件)』、長年、モーロのスポークスマンだったコラード・グエルゾーニの『アルド・モーロ』などの書籍、映画『Todo Modo』(トド・モド/エリオ・ペトリ)、ピエール・パオロ・パソリーニ『権力の空洞化、すなわち蛍の記事』(75年/コリエレ・デッラ・セーラ紙)、Youtubeにアップされている講演、インタビューなどを参考に、アルド・モーロという人物が時代に与えた影響を、まず考えてみたいと思います。
ダミラーノは、かつて「ここにイタリアで最も重要な人物がいる」、と父親に連れられて行った教会祈りを捧げるアルド・モーロの姿に出会い、そのイメージが脳裏に焼きついたまま、事件直前には、小学校のスクールバスでファーニ通りを通った、という稀有な経験をしています。そして、その幼少時代の記憶とともに、レオナルド・シャーシャとパソリーニの記事を分析しながら『真実の核心』を書きはじめました。
事件の経緯とともに、人間アルド・モーロの政治家としての軌跡を、自分の足で歩いて現場をリサーチしながら時代を俯瞰しており、ジャーナリズムというよりは文学的ともいえる、他の『モーロ事件』に関する書籍とは異なる、読み応えのある一冊です。

また、常にモーロのそばにいたコラード・グエルゾーニの著作は、ジャーナリスティックではありながらも、モーロへの深い尊敬が垣間見え、権力の座にぶら下がる、モーロの同僚政治家たちの、怪物的とも言える冷酷非情な対応も赤裸々に描いており、ある意味ぞっとした次第です。
何より、事件の3ヶ月後に脱稿された、レオナルド・シャーシャの『モーロ事件』の分析と疑問は、彼自身がこの政治家の思想的敵対者であったにも関わらず、当時の誰よりも尊厳ある、人間的な同情で事件の本質が語られ、46年経った現在も、ほんの少しも色褪せてはいません。
むしろ、短期間での執筆でありながら、事件の背景をすべて見透かし、真相暗示するかのような驚くべき内容で、その後のすべての捜査、リサーチはシャーシャのこの分析を基盤にしているのではないか、と勘ぐるほどでもありました。1982年に『モーロ事件』政府議会調査委員会メンバーであったシャーシャは、そのレポートに、「これらの疑問には、後年の歴史家たちが決着をつけていくであろう」とも書いています。

※1966年、アルド・モーロが首相として政権を担っていた時代の「労働者たちの民主主義社会への参加のためのACLI」会議でのスピーチ。この時、モーロが牽引する『キリスト教民主党』は『イタリア社会党』を政権に組み込んでいます。

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