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貯金する時

人には成長できる時と、できない時がある。通訳でも、新しい分野に挑戦では、今まで蓄積してきたものはあまり役に立たない気がして辛い。辛い辛いとボヤキながらやっているうちに、ちょっと違う風景が見えてきて、前ほどイヤだと思わなくなったことに気づいたりする。振り返ってみると、これは成長なのだと思う。子供の頃のように明確にこれができるようになった、という感覚ではない。客観的な尺度があるわけでもない。でも何かを越えたような、ぼんやりではあるものの新鮮な感覚があるのだ。
 
これは喜ぶべきことなのだと思う。しかし最近思うのは、その後やってくるのは別の辛さだということ。やるべき事が迫っている時というのは、それをこなすことだけを考えていれば良いから、それ以上は考えずにすむ。何かに追われるようにこなしているうちに、一通りの流れは分かるようになる。でもその先は、更に一段上るために何が必要なのか自分で見つけなくてはいけない。
 
ここで油断して何もしないと、後でしっぺ返しをくらう。コンフォートゾーンにとどまることの最大の弊害は、気がついたら現状維持すらできなくなっていることだと思う。それが分かっているから尚更焦る。選択肢としては、その分野を更に深めるべく背景知識を増やす努力をするのか。似た分野にも手を広げてみるか。全く違う新たな分野でも、相乗効果が見込めるかもしれない・・・。あれこれやってみても、当初のような分かりやすい達成感はなかなか味わえない。成長スピードは鈍化するものだと分かっていても、焦燥感がふつふつと沸き起こる。
 
しかし私はこれを「ため」なのだと思うようにしている。「溜め」であり「矯め」であり「貯め」である。成長サイクルには次の段階に向けて蓄積すべき時間、それを熟成させる時間が必要だ。次の跳躍のために身をかがめる時、という表現もどこかで見たことがあるが、私は分かりやすく「貯金」のフェーズと思うようにしている。うまい通訳者はこの貯金が多い人、経験と技術が何層にも蓄積されている人だと思う。短期間で結果が出なくとも、焦らず腐らず貯める。しかし貯金そのものが人生の目的になってしまわないよう、小さな成長、ささやかな達成感も大切にしていきたいと思っている。

執筆者:川井 円(かわい まどか)
インターグループの専属通訳者として、スポーツ関連の通訳から政府間会合まで、幅広い分野の通訳現場で活躍。意外にも、学生時代に好きだった教科は英語ではなく国語。今は英語力だけでなく、持ち前の国語力で質の高い通訳に定評がある。趣味は読書と国内旅行。