60年前の読書術がいまなお色あせない驚き〜『読書術』〜【11月読書本チャレンジ15】
今日の本は、加藤周一『読書術』です。以前紹介した『積読こそ完全な読書術である』の本で存在を知りました。
最初に光文社から出版されたのが1962年、その後岩波書店同時代ライブラリー版として出たのが1993年、この版を底本として作られた岩波現代文庫版が私が今手元にあるものです。現在2024年、最初の出版から数えてもう60年を超えているのに、読んでいて古さをあまり感じません。それどころかうなづける点も多いぐらいです。
今、私は通信制の大学院生なのですが、そこで参考資料として入手した『日本文学序説』で鋭い論考を加えている人と同じ方とは思えないぐらいです。いえ、ひょっとしたらその論考を文学研究に不慣れな私が少しずつとはいえ読むことができる、ということが、加藤周一氏の文章の分かりやすさを表しているのかもしれません。
本書では読書術には次のものがある、と分類されています。
『積読』では、「ビジネス書のような読みやすさや、すぐ使えるTIPSを期待すると肩透かしを喰らうような、とぼけた一冊」と評してありましたが、私にとってはピンと来ることの多い、実り多き本でした。ではいくつか閃きがあったところを紹介しましょう。
まずはおそく読む「精読術」の箇所から。
古典は、おそく読む。それが基本なのです。だから、速読には適さない。じっくり読むべき本に私もよく哲学を例に出しますが、古代ギリシャの哲学から近現代の哲学まで、とかく哲学とははやく読んで意味が通じるものではないですね。
ただ、こういうことも書いてあります。分野を初めて学ぶ時には教科書が1冊必要だ、ということが書いてあるところで、
ここで、「ああ、やっぱり古典をしっかり読んでこなかった自分はなんて駄目なんだろう」と思いますよね? でも加藤氏はけっしてだから古典をまずは読め、ということは言っていません。現代の文学、つまり自分が親しみのもてる内容の本をどんどん読むべし、と言っているのです。そうしてある程度の速度で読み進めると、自分なりの考えが整理されてくる、と。
助かった!
この現象はまさに今の自分で起きていることのような気がします。小説にしても実用書にしてもあれこれと手を出して乱読していると、「もう古典でいいんじゃね?」という気分になってくる。まあ、まだそこまで古典を読めてはいないのですが、「これは面白い!」というものも少しずつ出てきています。
『百冊で耕す』の著者・近藤康太郎氏の書くことについての本、『三行で、撃つ』にライターたるもの、読むことも書くことの訓練であるべし、という話が出てきます。自分が主宰する文章塾では2時間の読書が課せられるそうです。その内訳は、
1時間は好きな本の読書
残りの1時間を世界文学、日本文学、社会科学・自然科学、そして詩集
となっています。この件もあり、また自分の興味も移ってきたことから、少しずつ古典に手を出しているところです。
もちろん、前回、前々回に紹介してきた「名著」に関する本もきっかけになっているのは間違いありません。誰かが感動したという本を読んでみたい、と思うのはよくあることでしょう。私の場合、そんなのばっかりです。読めば読むほど積読が増える。読む量は増えているのに読むべき本は減らない、というポケットの中のビスケットのような状態になっています。謎ですな……
本書にはもうひとつ私たちを気持ちを楽にさせてくれるところがあります。
本には読むべきタイミングが存在する、と思います。先ほどの古典を読むとき、もそうでしょう。だからむずかしい本を無理して読むことはないといえます。もちろん、仕事でどうにか読まなくてはならない、などという場合もあるでしょう。でも本当に必要なら、たとえむずかしくてもなぜか読破できてしまう、そういうものだろうか、と思いました。
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