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猫は天性の狩人にて〜『猫の妙術』〜【2月猫本チャレンジ7】

今日は、『猫の妙術』です。
以前Instagramに読んだ本の感想を出していたころ、一度紹介したことがあります。

『猫の妙術』

この本、「新釈」とあるように出版は2020年と比較的最近のことです。でも江戸中期に書かれた剣術指南本ということらしく、講談社学呪術文庫版でもともと出ていたりとかなり古い本のようです。

私の場合はかわいい猫の絵が表紙にあったので、「ぬぬ? これは何だ?」と興味を持ったのです。いやはや、これは実にアタリな本でした。実に奥が深い。

まず、勝軒という剣術者が出てきます。この人、剣術で身を立ててはいますが、なんせ太平の世が続いた江戸時代、すでに戦に出た経験はありません。ある日家へ帰ると、家の座敷に猫と同じぐらいの大きさの鼠が居座っていたのでした。

その家にいる白猫では歯が立たぬ。近所で評判の黒猫、強そうな虎猫、そして心に寄り添う灰猫とどの猫がやってきても大鼠には敵わない。そこで猫一同が頼ったのが「武神」と呼ばれる古猫だったのです。ヨロヨロと足腰もおぼつかない様子に見えた古猫はあっさりと大鼠をくわえて座敷から出してしまいました。

と、ここまで来ると、そんなに次々と鼠取り名人が呼ばれてくるなんておとぎ話だな、と思う人もいるかもしれません。まあ、確かにひとつ仕掛けがあります。この勝軒はなぜか猫と会話することができるのです。だから家に住んでいる白猫が近所の猫の仲間うちで評判の猫をどんどん連れてくることができるんですね。

猫と話せるとはうらやましい! 
いや? 話せたら最後、何を言われるか分かったものじゃないからやはり話せない方がいいのかな?

それはともかく話の後半は見事鼠を追い払った祝いの宴が催され、古猫から鼠取りの極意について、ひいては武術の極意についての話がはじまります。

技を磨いてもそれは表面のことだけ。相手に勝る気力で迫っても相手の気が自分より大きければ通じない。無の境地を持とうにも、そう思った時点ですでに作為が入っている。

うーむ、柳生石舟斎の真剣白刃取りの極致だろうか。剣を極めれば無手に行き着くとすれば、まるで中島敦の『名人伝』に出てくる弓の名手の話みたい。あの名人も最後には弓を見てもそれが何なのか分からなくなっていた、というエピソードが最後にあったと思うのです。

こちらの意志、これは本書では「念」とされていますが、動こうと思って動くのではなく、道理と一体になった気に動かされなくてはならぬ。鼠に圧倒された最初の猫たちには作為があり、それでは道理にかなわない、と古猫は言います。

脳科学の世界では、「意志があって身体が動く」のではなく、「意志が起こるより前に身体が先に動き出している」のが正解だというのが通説になっているのだそうです。今Audibleで脳科学の著書を多く出されている池谷裕二先生の『進化しすぎた脳』を聞いているのですが、その中でもこの話が出てきます。

スポーツで素振りや型が最初に大切とされるのは、身体が意識の介在なしに正しく動かないと反応できないのでしょうね。スポーツだけでなく、話すことも同じ場合があるのでは、とときどき思います。仕事で同時通訳をするとき、口が勝手に動いている感覚をもつことがあるからです。まあ、言語野で言葉を処理している以上、いくらなんでも脳は動いているはずですが、よく「通訳者は脊髄反射で話せないと」と冗談を言ったりします。

武術の奥義はそう考えると脳科学的にも理にかなっている、と言えるのかも知れませんね。新釈と充実した解説で深く考えられる本でした。

今月の猫チャレンジは、コチラ↓↓↓

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