つまり資本主義はなにが問題で、どこから考え直したらいいのか?ULMR small work2
『現代経済学の直観的方法』(講談社)と、『経済学の思考法』(講談社学術文庫)を立て続けに読む。前書では、未学者でも取っ付きやすいシンプルな思考実験を土台に、古今東西の経済学の歴史を織り交ぜ、現代の経済学の姿を浮かび上がらせる。一方後書では、ここ数十年間に起こった経済の事件、またそれに伴う経済学自体の揺れ動きを描きながら、その背後にある経済学が持っているイデオロギーをつまびらかにしていく。
そして、どちらの本にも共通しているのは「これからの未来に向けて必要な新しい経済学」を考えようとしている点だ。
というわけで、ここでは両著の面白かった一部分をピックアップしていきながら、ぼく自身の観点も交え、今の経済の重心を見定めてみる。
資本主義とは金利である
さて、環境問題や格差問題に関連してやたらと目の敵にされがちな資本主義だが、一体そもそも資本主義とは何のことを言っているのだろうか。長沼伸一郎はズバリ「金利」にその核心があると答える。
企業は一度でも融資を受けてしまえば、今この瞬間以上にビジネスの規模を大きくすることが至上命題となってしまう。だからこそ、どんどん新しく工場を建てたり、新製品を開発したり、新事業を立ち上げたりして、売上や利益を増やす。
資本主義と聞くとなんだか難しい気がするが、なんてことはない。多くの企業はただ単に利子を払うためにせっせと経済活動に精を出しているだけなのだ。これは別に銀行だけでなく、ベンチャーキャピタルや投資家からお金を借りているベンチャー企業も構図としては同じである。なんともシンプルな話で拍子抜けしてしまいそうだが、よく考えてみればまさしくその通りで、そうして大小様々な組織がそれぞれの利子を返すために活動し、いつの間にか国際的に不当な労働が蔓延ってしまったり、気候変動といった大きな問題が引き起こされてしまったのだ。資本主義における金利という存在は非常に大切なポイントなので、しっかりおさえておこう。
また、このような状態が続けば続くほど、必然的に金融機関や機関投資家たちがぶくぶくと加速度的に肥えていく。経済学的に言えば、衣食住にまつわる商品やサービス、その他の具体的なモノのやりとりを表す「実体経済」に比べて、「金融経済」の規模が大きくなる。たとえば、いまから30年も前の1990年台の時点で、世界全体で古典的な貿易のために動く資金は1日あたり130億ドルであり、一方投機のために動く資金が1兆ドルだった。つまり、実生活とはおよそ関係のない狭い金融市場の内側だけで、なんと、実体経済の100倍のマネーが動いていたのだそうだ。
もはや、経済のあり様それ自体が大きく変わっている。実体経済から金融経済へと。くわえて、たとえばここに日本経済の没落の原因を見てとることもできる。「ものづくり大国ニッポン」のようなキャッチフレーズに代表される製造業を中心とした経済、つまり実体経済が主だった頃の経済状況においては、日本は勝ち続けることができた。しかし20世紀の後半、経済の主戦場が金融経済へと移行していく中で、日本は上手く金融経済にジャンプできなかったというわけだ。
話を金利に戻すと、ではそもそもなぜ銀行や投資家から融資を受けることが常態化してしまっているのだろうか。それは、経済とは基本的に早い者勝ちの性質を持っているからだ。
たとえば、絶対にみんなが欲しがる画期的な製品をぼくが思いついたとして、それを作るのに10億円かかるとする。で、今日からそのために貯金を始めて、50年後にお金が溜まり、晴れて新製品の開発に乗り出すとする。一方、ぼくと同じようなアイデアを思いついたAさんが融資を受けて、今日から新製品の開発に乗り出すとする。50年後、Aさんが開発した商品は当然のように世の中に流通している。一方、ぼくはようやく開発に着手するわけだが、その商品は既に50年前の今日に開発されているため、周囲から「なんで今さらそんな古いものを作ってるんだ?」とバカにされて終わりだ。このように、いかに早く安く大量に良いモノやサービスを作り、ライバルより先に市場に参入できるかが経済にとっては大切だ。当たり前の話である。
また、この競争というのは非常にやっかいで、世界中のみんなが息を合わせて「せーの!」で辞めるわけにはいかない。その場合、抜け駆けした人たちが利益を総取りできるからだ。だから競争をいち早く勝ち抜くために、誰もが融資というドーピングを打つ。その融資によって優秀な人材や設備投資を集め数年間だけ筋肉を増強をする。たとえ利子という副作用があったとしても、周りより速く走る必要があるため、初速からトップスピードで走るしかないのだ。
このような原理がより強力に働くようになったのは、経済がグローバル化していったここ数十年の話である。換言すれば、競争が国内大会から世界大会へと変わっていった、というわけなのだが、実はこれを後押ししていった経済学の考え方がある。それが「新古典派経済学」である。
揺らぐ市場主義
さて、その新古典派経済学がその背骨としているのは、経済学の父と呼ばれるアダム・スミスである。彼のよく知られている考え方は、市場にはなるべく介入せずにいれば、需要と供給は「見えざる手」によって自然とうまく調和される、といったものだ。詳細については説明を省くが、このような感じで、新古典派経済学は市場に対して基本的に自由放任の態度を取る。
程度の差こそあれ、現代においても多くの経営者やビジネスパーソンはこのような自由市場=善という考え方を抱いている。自分も社員数が1人(自分自身)とはいえ法人の代表なのでわかるが、なるべくなら経済活動を邪魔されたくない。やりたい活動を自由にやらせてほしい。政府や行政が介入するとロクなことにならない。そう考えている。
しかし、そういった考え方は間違っているし、そもそもアダム・スミス=市場主義経済支持者とする考え方自体も間違えていると佐伯啓思は説く。
誤りをすべて列挙していては本を全て書き写すことになってしまうので、とりあえずここではアダム・スミスの誤認について焦点を当てる。
さて、竹中平蔵のような自由貿易や自由競争を強く信じる人たち、いわゆる新古典派経済学的な人たちにとっての背骨であるアダム・スミスが実は誤認されていると佐伯は指摘したわけだが、実際どのように勘違いされているのか。その内容を見ていこう。
ところで、万葉集や古今和歌集で「花」とあれば花全般ではなく「梅の花」や「桜の花」を指し示すことが多いように、違う時代の言葉を受け取るときには厳重な注意が必要だ。というわけで、まずはアダム・スミスがなにを書いたかではなく、アダム・スミスが生きた時代を簡単にスケッチしておく。
スミスの生きた18世紀のイギリスは、重商主義という経済政策を取っていた。重商主義とは、「貨幣こそが富である」という考え方にもとづいている。だから当時のイギリスは、特定の産業を補助して育成し輸出を拡大、一方で輸入品には高額の関税をかけるなどして、貿易差額を生み出していた。こうして、国内から国外へと持ち出される金・銀を最小限に抑え、逆に輸出によって利益を上げることで、国外から多くの金・銀を得ていた。
また、イギリスはさらに金・銀を得るために、商業に力を入れる。しかし、当時の商業は海賊との戦いであった。映画『パイレーツ・オブ・カリビアン/デッドマンズチェスト』の世界である。海賊に対抗するためにイギリスは軍備増強を図りたいが、そのためには安定した財政が必要になってくる。そこで、イギリスは世界に先駆けて国家として銀行を整備した。
銀行によって国債や発行券といった金・銀に変わる新しい貨幣が生まれ、それらを軸にした金融経済が生まれていく。そして、オランダを始めとする海外の銀行家もこの市場に参入していった。こうして、イギリスは国際的な金融経済網を構築していく。
このように、みんなが富=貨幣を求めた結果金融経済を生み出し、そこに貨幣が流れていくようになってきた。そんな重商主義の時代の中で、重商主義に反対したのがアダム・スミスである。
そして、このような文脈の上であの有名な「見えざる手」も出てくる。つまり「自然の秩序」に従って各々が投資をすれば、自ずと農業に始まり、そのあと製造業や海外へと投資されれば、見えざる手によって調和が保たれるだろう、というわけである。スミスに言わせれば、いきなり金融経済なんかに投資するのは「不自然」というわけだ。
なんということだろう。グローバル経済を支持する人たちの祖として崇められがちなアダム・スミスは、身近なところから投資をするべきだというむしろ極めてイギリスファースト的な思考の持ち主だったのだ。
そのように考えてみると、スミスが書いた「見えざる手」がいつの間にか文脈を離れて独り歩きしてしまい、相反する考えを持つはずの竹中平蔵に引用されてしまっている現状はなんとも面白い。もし現代にアダム・スミスがタイムスリップし、金融経済が覇権を握る今の経済状況を目の当たりにしたとき、我が子に背中を刺された気分になることだろう(笑)。
歯切れの悪い結論
とはいえ、別にアダム・スミスが広く誤認されているからといって、それだけで現代の自由貿易や自由競争を完全否定することはできない。たとえば、各国の貿易依存度が高まれば、戦争の抑止になるといった、国際平和の観点もある。相互に自由貿易をしておけば戦争をした場合、めぐりめぐって自国がダメージを受けるからだ。
また、グローバリストたちにいくらスミスの誤認を指摘したところで、現実問題として、相変わらず企業は利子を返すためにせっせと企業活動を広げていかなくてはいけない。
さらに言えば、スミスの頃から時代は変わり、金融だけがグローバルなのではなく、たとえば工業でさえ安い労働力を求めて国外へと生産拠点を置けてしまうのが現代である。ある意味でスミスは堅実な投資を進める自由主義者であったかもしれないが、国内で自由な資本主義が進めば進むほど、企業は海外へ進出し、国内の雇用は不安定になるというパラドックスを現代の経済は抱えている。結果として、一昔前では考えられないような排他的な言説であっても多くの支持を集めてしまうのだ。そしてだからこそ、トランプ大統領は当選し、イギリスはEUを離脱した。
余談だが、中国はグレートファイヤーウォールを敷くことで、GAFAの参入を防ぎ、自国IT企業を育て、いまやアリババやテンセントといった世界トップレベルのIT大国となった。一方参入を許した日本は、GAFAにその利益を根こそぎ持っていかれているし、国内企業も育っていない。楽天やメルカリは本当によくやっている(笑)。
ごちゃごちゃ書いてきてしまったが、とにかく、なんでもかんでも自由に競争して、自由に貿易して、自由に金融もやり取りしましょう、といったことの歪みが現れ始めているのが経済の現在地である。見事に経済はグローバル化したかもしれないが、政治や法律は相変わらず国家単位で運営されているので、当たり前っちゃ当たり前の反動である。もちろん、だからといって単純に前時代的な仕組みに回帰してしまえというわけではない。むしろそれだと伝統社会の負の側面が表出し、歴史の過ちが繰り返されてしまうことだろう。しかし、かといってこのまま新古典派的な、自由な市場や貿易を絶対視するような経済観が継続されるべきだとも思えない。
さてさて、今回紹介した両著はアプローチこそ違えど、自由な競争や成長を前提としてきた経済学から脱却し、新たな経済学を考え直さなければならないといった趣旨で結ばれている。ぶっちゃけ、明るい未来がイメージできる簡単な選択肢が提示されているわけではない。それくらい厄介な問題なのだ。
ひとまずぼくたちにできることは、いまのこの世界とは別のあり様を想像することから始めるしかないだろう。うーん、たとえば、「貸した額きっちり返してくれればそれでいいよ」ということで友達にお金を貸してみるとか? 全世界の政府に徳政令を要求するとか? 金融機関や機関投資家、金利で私腹を肥やしている奴らを全員〇すとか?(おい)
.......まあ...とにかく、いまの世界の根本を変えていこうということなのだから、まずはタブーなしで自由に想像してみよう(笑)。両著ともに、近代以前の歴史から参考になりそうな事例も随所に紹介されている。ぜひ一読することをおすすめする。
...ん? 実はここまでソファーに寝転びながらスマホで書いていたのだが、今ちょうど猫がお腹の上に乗ってきた。猫は良い。ご飯を食べたら、ぼんやりして、時々走り回って、昼寝して。ご飯さえあれば、基本的に特に不満はないようだ…猫にとって金融経済は存在せず、実体経済しかない....…
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