古事記からの連想ゲームとメタファーから、神道色彩論の行列力学へ…もしくは、コーデック天津金木はH(ハミルトニアン)のアニメーションとなるか?
ライブハウス岡山ペパーランド では毎年の年末LIVEに10数ページに及ぶパンフレットが配られます。そこには出演アーティストのプロフィールとともに、1年間のPEPPERLANDと能勢伊勢雄氏の活動の記録が(読むのに覚悟を迫られるような小さな級数で…www…)記されています。この時期秋のイベントシーズンが終わると、次にスタッフに待っているのがこのパンレットの編集作業です。昨年、2021〜2022のパンフレットに寄稿した文章に若干手を加え以下にupします。
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京都国際映画祭2021
「古事記に見る形態とは何か?ー「ウツシキ アヲヒトクサ 黒宮菜菜」展を巡ってー」を観て…
この動画の導入部で神道の教義について下記の文が掲示される。
…神道には仏教と異なり教義や理論は無いと言われているが、本田親徳によって古事記の「引地凝解動静分合」という八力を『古事記』の宇比地邇神以下の八神に比定し「神道自然学」を確立たことは有名な話である、そして、本田親徳の高弟である大石凝真素美は「神道自然学」を深め神道形態学とよばれる「天津金木」學を復興し、天津金木を以って古事記を読解し『極典紀』三巻を完成した。その過程で発見されてきた神の御姿を「天津菅曾」學という神相學として確立し、同時に「日本言霊」學を完成した。このような理路整然とした教義が我が国の神道はある…
この我が国の神道三學を持って葦原中国の成立を簡単なレクチャーでたどりながら、『古事記』の青人草(アヲヒトクサ)をモチーフに作品制作を展開する黒宮菜菜さんとの対談を展開したものです。
出演:能勢伊勢雄、黒宮菜菜、MCおかけんた
協力:Gallery Nomart、京都場、仲野泰生、おかけんた、写真家集団 Phenomena
Engineer:能勢遊神、真野博未
#京都国際映画祭2021
教義のない宗教だってあるだろう…というぐらいに私は今まで軽く思っていた。しかし、そこを能勢さんは緻密に検証してゆく…幕末明治以降に教義や理論の成立に相当する仕事をした本田親徳、友清歓真、大石凝真素美、水谷清、橋爪一衛らによって、現在では暗号と化してしまった古事記を天津金木というエニグマ(暗号解読機)で解読することができるという。つまり、この天津金木や六角切子玉(立方八面体)は古事記というコードを読み解くコーデックなのかもしれない。ただし、このアルゴリズムは鎮魂帰神法による宮居の上で「霊をもって霊に対して」書かれたものなので、それを使い古事記をデコード(読み解く)するときに、「霊をもって霊に対した」過去の神道家の「強度」に相当する何らかの「態度」が、デコードする私たちにも求められているのかもしれない?と思った。なぜなら最終的には、読み解かれた”結果”よりも霊をもって霊に対する”過程”の方が大切だと、古事記は伝えているように私には思えたからだ。
このような「神道の(方法)捉え方」は、明治維新以降、富国強兵-殖産興業の号令のもと、政府が進めていった国家神道とそれを強化する廃仏毀釈、神社合祀とはある意味真逆の方向性だったのだろう。
…自分の内面の声を聴くことが神の声を聴くことになる。自分の内面の声に従って日常行動することが神業(しんぎょう)なのだと…。
<神界の形を地上を通して整えて行くこと>現界の古里修整(神示による建て替え直し)が革命と同義であると……翻って、禊祓(みそぎはらえ)の方法は時代とともに変化するという言い方もできるのかも…。言い換えれば、エンコード時の「感覚」がデコード時にオートマチックに再生されるようなチューリングマシンの組み込み、アーティステック(っっw)にアルゴリズムに組み込まれたフラクタルとドローン(音楽)のサイケデリア……
もちろんそれは単に私の勘でしかないけれど…。
1970年代半ばだった。インドに憧れ、セックス・ドラッグ・ロックンロール、エロ・グロ・ナンセンス、LOVE&PEACEをスローガンに、政治の季節と共におざなりな伝統や慣習に抗い、ポリティカルな可能性に新たな価値観を重ねていった集合が崩れてゆくのを、茶の間の家具調TVは映し出していた。ブラウン管にそよぐ風で「モーレツからビューティフルへ」のベクトルが揺れていた。関西フォークや公民権運動のプロテスト・ソングの残り香もある中、いくらビートルズの東洋趣味が嵩じようが、物理学の最先端は仏教哲学と同じだと説かれようが、京都奈良の名所旧跡神社仏閣で感じた恥ずかしいほどの「ドヤ感」には反感しか持てなかった、ただ神社のスッとした気配だけは記憶の底の鎮守の森の延長だからなのか、気持ちが良かった。
しかし、そこで、なぜ神道なのか…?…その必然性が当時どうにも理解できなかった。後に「必然性」など何の根拠になる訳もなく「表現と方法の問題」の違いで目的(ニアイコール 動機)は、60年代と言わず常に同じなのではないか?と思うようになった。レボリューションのメソッドと、その方法を語る言葉が違うだけなのだ…。バリケードとシュプレヒコールが結界と祝詞奏上になり。空気を読まない(笑)風にそよぐ木の葉を象徴化し且つ抽象化した、拍手(かしわで)を打つことで、嫋(たお)やかに革命は成就するのかもしれないと…。そしてその時、打たれた柏手の音色には、氏子や参拝者の日常全てがホログラムのようにたたみ込まれ、その一瞬で状況(アルゴリズム)を再起動するのだ!。
その気配は、20代の時神社で行われた友人の結婚式で、神主さんの柏手の音が境内を真っ直ぐに奥の院に向かって駆け抜けていったのを体験したのが初めだった。
不条理な日常を変えようと、正義の暴力と化す階級闘争にジレンマを感じ、幻想の既得権益とコスト・パフォーマンスの正誤表に踊らされ、心のヒダヒダの数で勝ち負けを競い、地雷のような小賢しい踏み絵に怯え、中二病と揶揄されながら疎外感に自閉する日々、誠実さのみを根拠にする日常の不自由さ……やがて、その(結局は)権利闘争の不毛さに自責の念を感じるようになるのは自然な成り行きなのだろう。そこで、古民家田舎暮らしで自給自足のヒッピーを気取るのか?それとも都会にとどまりコマーシャリズムを中央突破するジッピーを目指すのか?
そして、そのような二者択一に身を削るのではなく、第三の方法として神道はあったのかもしれない?… 側から見れば身近な場所の掃除と整理整頓をしているとしか見えなくもない「雛形を整える」事で現実を変えようとする「神道の方法」に…。また、そこで仏教より神道だったのは、西洋で手垢の付きまくった禅やヨガより、より身近にある鎮守の森の延長を…また、神道以外の宗教ではヒッピーと同じ様に、あまりにも世俗を離れすぎる(トリップしすぎる)と思えたからだろうか?…。そのように理解するのが一番腑に落ちると思えた……いやまだスッキリとしない、なぜ神道というある一つの宗教なのか……。
そこで、一つの仮定を立ててみた。「私たちはどこからきて何処へ行くのか?」とは言い換えれば「場所と場の関係性」の把握ではないのかと…。
そこで、物性と場の科学=物理学と同じように、場所と場の宗教=神道だったのかもしれないと…。日本という国家の「統一」に仏教を使ったのと違い、統一以前、国家の「成立」には「場所の宗教」のコンセプトがその基本構造となったのかもしれないからだ。
そこで、神道の方法とは… …鎮魂帰神により「宮居」となり「神」の声を聴き、その声に従い「神業」により神界の形を整えることによって、現界の古里修正(神示による立て替え直し)を行う…「霊をもって霊に対する」ことが基本にある…と能勢さんは動画の中でレクチャーする。鎮魂帰神による「宮居」とは死霊の憑依でトランス状態に入り、第一人称で問題解決の指針を語る「口寄せ」や「自動書記」の一種でもあり部落共同体のシャーマン、ユタやイタコの類とも言えるのだろうが、動画の中で能勢さんは二・二六事件の青年将校磯部浅一の霊を自らに宮居させた状態で書かれた、三島由紀夫の「英霊の聲」の例を”あえて”出す。それは霊をもって霊に対する事と明治以降の「国家神道」との関係の確認を意図しているからなのかもしれない。
古里修正による嫋やかな革命の2つの方法。一つ目は、他の宗教や所謂スピ系SNSでも散見される、他人や状況を変えることなどできないのだから、自分が変わること、(自らの視座を変えること)‥ニアイコール‥変えることができるのは”私”と周りとの関係性だけ……
二つ目は、政治よりもっと深い根源的なところから世界(状況)を変えること。そこで「雛形(バーチャルモデル)を整えることで現実(リアリティ)を変える」という神道の方法に着目したのではないかと思った。
その流れで2022年末現在「リアリティを変える」という意味においては、ゲームとアニメが最も強力なツールだろう、と地球規模で衆人が思うところまで時代は来ているのではないのだろうか?。
不確定性原理で有名なW.ハイゼンベルグは「現代物理学に照らしてみたゲーテの色彩論とニュートンの色彩論」の中で次のようにニュートンとゲーテを繋げている。
「…現実を遠く離れ、数々の特殊条件のもとに実験実証された、すべての基準となる法則を理解することだけではなく、その法則が機能する様子を直感的に生き生きとしたものとしてはっきりと見えるようにすることが必要なのだ…」と、
つまり、ニュートンとゲーテは対立するものではなく自然認識のレイヤーが違うだけなのだと。そして、時間論としては、今という瞬間とは、私(観測者)が、数々の認識のレイヤー間を、自在に光速で行き来している一瞬、一過程だと定義づけているのかもしれない。能勢さんは、このようなハイゼンベルグ的視座にならい?、神道のテクスチャーの2つを現代の言葉に置き換えている。
「現界を組み替える」=革命、
「ス神=天沼矛」=自我、
乱暴に例えれば、大石擬真素美の神道論に対応するのがニュートンの色彩論であり、現代の”私達”の感覚はゲーテの色彩論となるのだろうか…となると、2つのlayer、自然の行列力学的解釈と霊的解釈(鎮魂帰神法)の出会う世界線が、科学技術と国家の宿命(国土の拡大)の相関関係を規定するのだろうか?。量子力学の観察者効果や不確定性原理を、2つの質点の位置と運動量はお互いの関係性で表されると拡大解釈すれば、天津金木はマトリクス(行列、映画)となる。
金木の白→黒はベクトル、ウマシアシカビヒコヂノカミの興味の方向。極身(君)、大身(大臣)、小身(小臣)、手身(民)という政治的ヒエラルキーを4色で表したのは、公民権運動やデモクラシーが成立してゆく当時の時代背景のためだろうか?…。言い方を変えれば、国家成立の熱量のスカラー量が行列の成分(4色)となり、祀り事のリソースの活用のための分業が線形写像となるのかもしれない…。
しかし、現在はその4色を別のモノに置換した方がもっとイマジネーションが広がるだろう。例えば、DNA(アデニン、チミン、グアニン、シトシン)、天之四霊(青龍、朱雀、白虎、玄武)、統一場理論(強い相互作用、弱い相互作用、電磁力、重力) …などなど…。
いろいろな物理現象のモデルに行列が使われているのと同じように、神道形態学は現界を神業という行列でモデル化し、量子力学における行列力学のように地上を通して神界を整えて行く。
マトリクスとみなされた天津金木の動きは、国家というローカリティを借りてハミルトニアン(H:ある世界系の質点の全エネルギーを表す演算子)のアニメーションとなる。
そのアニメーションは新たなコンセプチュアルアートのジャンルとなるかもしれない。その意味で今回「ウツシキ アヲヒトクサ 黒宮菜菜」展で初めて作品中に示された天津金木と六角切子玉(ベクトル平衡体)の意味は大きいと言えるのだろう。
そこで、行列力学で表された世界と霊界を橋渡しするのがコンセプチュアルアートの使命の一つかもしれない。
霊界の雛形を整えることで現界を組み替えるとは、ロゴマークのように象徴を抽象化することと同じ。霊界の雛形とはモデル、模型、型。(日常的に言い換えれば)美しくデザインされたモデルのみが世の中を変えることができるということ。行列で表されるメタバース内のアーティフィシャル・ランドスケープと同じ方法で、「此処ではない何処か、今ではない何時か」のコンセプトモデルとして、「古事記に見る形態」は時空を超えて、未来のために読み解かれようとしている。
PEPPERLAND 2021-2022
FINAL AND NEW YEAR LIVE パンフレットより
2022.12.12 改訂