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洋家具発祥の地 東京 芝家具物語 芝界隈ぶらり散歩


芝家具とは、建築の西洋化に対応してつくられた完全オーダーメイドの洋家具です。

明治初期の国際的社交場として建てられた洋館「鹿鳴館」が、イギリス人コンドルの設計により着工したのが1881年(明治14年)1月。ネオ・バロック様式を基調とした煉瓦(れんが)造り2階建ての本館と付属施設の総建坪1450平方メートル洋館が1883年(明治16年)7月竣工(しゅんこう)、11月28日に開館式を行いました。

そのころから、西新橋、虎ノ門には官吏、実業家、貴族達の住居が増え、また、丸の内を中心に銀行や企業、霞ヶ関の官公庁など欧州風洋館が増えました。


東京湾からレインボーブリッジ、お台場付近が見える。手前は増上寺と芝公園。
大門から西新橋付近。多くの家具店が軒を連ねた赤煉瓦通りは左側、その先のビルの谷間には旧芝離宮恩賜庭園が見える。

そのため西洋家具の需要も増え、新橋、西新橋、虎ノ門一帯で洋家具製造の機運が高まり、多くの職人が集まって、こうした時代の変化のなかで、現在の新橋の山手線の内側には「芝家具」と呼ばれる家具製造販売業者が増加しました。それが「芝家具」の始まりです。

もともとは西洋古物商だったり、江戸時代に駕籠をつくっていた業者が家具製造に転じた例もあったということです。最初の家具店は外国公館の家具の修理から始まった店だという1871年(明治4)に千代田区内幸町で創業した木下商店でした。

明治20年代になると芝家具は定着期に入り、増大する洋風建築や博覧会のために家具を製作するようになりました。明治40年頃には、洋家具店が軒を連ねるほど増えています。現在の赤煉瓦通りには特に多くの家具店が軒を連ねており、家具の街として知られるようになっていきました。


遠くに見えるスカイツリー。その周辺が関東大震災のときは火の海だった。左の高層ビルは虎の門ヒルズ、手前は愛宕グリーンヒルズ。


1923年(大正12)、関東大震災が発生します。ほとんどの家や建物、店舗が焼失しました。特に被害が大きかった下町から人々が流れ移り住んだのが新橋あたりです。新橋は東京港区ですが、山の手というより下町の風情を感じるのはその由縁でしょうか。

そして芝周辺には多くの職人たちも住居を構えました。最初は中古家具を扱い、修理をおこなう中で、見よう見まねでその技術を習得していった芝家具は、木材を加工する木地師から、塗装を行う塗師屋、座面の椅子張りなど、各工程を専門とする職人が集まったことで、全盛期を迎えます。

震災は東京に大きな被害をもたらしましたが、これによってむしろ東京の近代都市化が進み、郊外には洋室のある家が増えました。都心のオフィス家具、郊外住宅用の家具など需要が増え、お得な応接三点セットも流行して、築地の聖路加病院も1933年に新築するにあたり、芝家具を導入したといいます。

このときが芝家具の全盛期でした。


左側の高層ビルは六本木ヒルズ、手前の工事中のビルは2023年オープン予定の麻布台ヒルズ。

戦後は地域一帯の都市化が進み、高層ビルが立ち並ぶ中での音や粉塵のでる家具製造は困難で、芝の家具屋は徐々に姿を消していきました。現在の芝周辺では、ものづくりの街を思い起こさせるものを見つけることは難しいかもしれません。かつてを知る職人たちも高齢になり、芝家具という存在も忘れられつつあります。

ですが、戦後は地方での家具づくりが盛んになります。北海道の旭川家具、山形の天童家具、静岡家具、岐阜の飛騨家具 広島の府中家具、徳島家具、福岡の大川家具など、日本の家具業界の中核をいまでも担っています。

芝の東京タワーの最上階から眺めた風景は、ヒルズタワーがかつての欧州風洋館にみえ、新たな家具物語がやってきそうな予感がします。

『資料 東京都芝家具商工業協同組合『芝家具の百年史』1966を参照』


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かつて「芝家具」として栄えた洋家具づくり発祥の地、芝公園近郊のエリアで、家具製造の工場を探すのは難しいですが、インテリアショップが点在していますので紹介していきます。 ⇒ ⇒

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