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第2話「セルフバイオレンス〜ひとりぼっちの自分イジメ〜」

子ども部屋ワンルームで、今日も24という動物は、ノートパソコンに向かっている。

エアコンは少し古いのか、この時期にはたいして部屋を暖かくはしてくれない。

こたつ布団を処分してしまったので、こたつは封印状態。

激安スーパーで買ってきた、冷凍餃子50個入り、も10個焼いて食べてしまった。

フランスパンも、ピーナッツバターをつけながらかじり食い、低糖質豆乳で胃に流し込む。

ふと窓を見れば、西に陽が沈みかけている。

頭の中のもうひとりの自分、ガイアが24に話しかける。

「寂しくはないのか?」

「お前がいるから淋しくないよ」と24は答える。

「なぜ寂しさと淋しさを混同するんだ?」とガイアが質問したが24はそれには答えない。

24もガイアも、ふたりとも自分自身だ、自らの問いに自らが答える必要はない。

24は、スマホのスケジュールアプリを確認する。

もう1月には重要なイベントはない。

2月には、動かなければならないイベントは多少はあるが、重要なのはふたつだけだ。

ひとつは、地上波での新番組の放送。

これは自分自身のアイデンティティに関わる新番組なので、Blu-rayレコーダーに毎週録画予約をする。

すかさずガイアがツッコむ。

「レコーダーを持ってる時点で、年齢がバレるぞ? しかも、ツッコむなんて単語を使ったら、住んでいる地方もバレるぞ?」と。

構わない、私24が、どこに住んでいる年齢何歳の動物であろうと、それは他人の判断基準だ。

今どき、私が男であろうが女であろうが、それは自分の価値に反映されるのか?

私自身の価値が判明するのは、今月の「もうひとつのイベント」だ。

濁さずに書こう、田舎の山奥の寺院での「滝修行」だ。

正確には、朝の8時に現地集合、住職による特別授業とか、いわゆる読経とか写経とか、あーあれ、なんだ、肩をペチンペチンされるやつ。

朝から夕方まで、寺修行が続くのだが、最大のイベントは「昼食前の滝修行」、そして「あまり期待できない昼食(精進料理?)」、そのふたつだ。

(ガイアは書くなと言っているが)同世代のミポリンさんが不幸な事故で亡くなられたというのに、私24という動物は、真冬の2月に滝に打たれるために、もう寺院に寺修行を予約済みなのだ。

これがいわゆる「セルフバイオレンス〜ひとりぼっちの自分イジメ〜」の真相だ。

ここからはガイアに交代しよう。

「若い頃は、そりゃ同世代や上の世代からのイジメは嫌でしたよ? だからって、今自分が歳を重ねたからって、楽をしていいという理屈にはならんでしょ? 一歩間違えたら、自分が下の世代にプレッシャーを与えているかも知れない。だったら、自分で自分をイジメて、下の世代の心の痛みに寄り添いたい。偽善か? 自己陶酔か? 他人からのジャッジなどどうでもいい。バイオレンスがハラスメントだというのなら、ハラスメントとは何だ? 人と人が関わるだけでも、何かしらの軋轢はいずれ生まれる。全世界80億人がネットで、更にはリアルでいがみ合う時代だ。平和とは何だ? 幸福とは何だ? 愛とは、優しさとは、思いやりとは何だ!」

ヒートアップしたガイアから、24に交代しよう。

「価値観の多様性? なら、この世には80億の正義があることになる。戦争や犯罪は多様性ではないが、ポリシー=矜持の多様性は、人と人との間に歪みを生む。妬み嫉みでも、表現はなんでもいい。この日本の仲良しごっこの裏には【視えない戰い】があるのかも知れない。俺はそんな、人間という生き物の不完全さを、愛おしく思うとともに嫌悪もしている。ならせめて、自分で自分をイジメさせろ! 俺にだって親の敵みたいに憎かった奴らもいたが、本当に憎いのは【自分の弱さ】だ。真冬に滝に打たれて、ミポリンに逢うことになったとしても、俺は自らの4の恐怖さえも乗り越えてやる!」

(24もガイアもヒートアップしている、少しタバコを吸う、3分くれ)

24とガイアの本体、マインドの「入れ物」である私自身の身体には、疾患がある。心房細動という心臓のバグだ。ヒートショック状態に陥ったら、まず助からない。それでも2月に滝に打たれようとしている私自身を、24もガイアも止めようとはしないのだ。

第3の自分からの客観視

いわゆるリストカットなどの「自傷行為」で、精神的安定を図ろうとする方々の気持ちはわかる、私「第3の自分(名前はまだない)」が、自分で自分をイジメろ! と命じている。

4ぬ寸前まで自分を追い込まないと視えないものがある、と、どうやら、24もガイアも名もなき第3の自分も感じているようだ。

五感および第六感で物事を「状況把握・状況判断・状況処理」するのには限界がある。4の寸前にまで自分を追い込まないと視えないもの=感じられないものがある。と、もはや第3の自分さえも滝修行に賛同している。

第4の自分からの客観視

「考えるな、感じろ」はブルース・リーの格言だが、本当の意味での「究極の感覚」とは、真冬の滝の冷たさ、そして、躍動する(発作を起こす)心臓の鼓動だ。

(このままだと第5の自分が登場する、コーヒーを飲む、3分くれ)

窓の外はすっかり暗くなってしまった。

今はこの部屋(そして頭の中という部屋)の中には、24とガイアしかいない。

「自分で自分に暴力を行使する、辛くはないのか?」とガイアは問う。

「今この瞬間も、4にたくないのに4んでしまう人たちや、イジメられたくないのにイジメられる人たちが、地球上にいくらでもいるんだ、俺は俺をイジメて、彼ら彼女らの【心の痛みに寄り添う】!」

私、24の覚悟に、もうガイアは反論しなかった。

当たり前だ、24もガイアも、同じ【私自身】なのだから。

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