ノモンハン慰霊の旅⑤
フイ高地の一部分をやや高い位置から見ると(ドローン撮影)、主塹壕などの退避陣地から長く伸びた交通壕を持つ銃座がいくつも見られる。ソ連軍の野砲や迫撃砲が激しく日本軍火点の周辺に砲弾を撃ち込むと、射手は交通壕を辿って退避陣地に隠れ、砲撃が止むと(その直後からソ連歩兵の突撃が始まる)走って火点に戻り、重機関銃や軽機関銃、小銃をとって配置につき、前進してくるソ連兵を狙い撃ちにした。
そんな戦闘が繰り返され、当初、「数時間でフイ高地を確保、後方の主力日本陣地へ突破する」と構想されたソ連・モンゴル川の作戦計画は変更を余儀なくされた。激怒したソ連・モンゴル川司令官のゲオルギー・ジューコフ将軍は、フイ高地攻撃部隊の指揮官を1日目で更迭した。
先日、旅先で宿泊中の夢の中に3人の兵士が現れた。1人は片目を失ったまま、じっと立っている。もう1人は草原の中でぐるぐる、駆けて回っている。そして、もう1人はしきりに喉の渇きを訴えてくる。この夢の意味を考えて、この不定期連載のような記事を書けずに過ごしていた…。
ノモンハン地方は、ハルハ川とその支流、そして遊牧民が掘ったであろう家畜用の井戸がごくたまにある以外は、飲み水を得られる場所はない。1939年8月20日から開始されたソ連・モンゴル軍の総反攻で10倍強の兵力に取り巻かれ、防御戦闘を展開したフイ高地の日本軍(第23師団捜索隊と増強兵力計8コ中隊、800人前後)は、5日間にわたる戦闘の中で取水する機会もなく、水筒やドラム缶に溜めていた水もすぐに底をついて苦しい渇きの中に置かれた。
風がゆったり流れるフイ高地の塹壕陣地を歩く中で、錆着いた缶を見つけた。戦前から日本で人気のあったドロップ飴の缶だった。機関銃や小銃の撃ちがら薬莢が散乱する中に、ポツンと顔を出していた。振るとカラカラ音がしたのに驚いた。
なんとか蓋を開けると、中にはまだ数粒のドロップがややグチャグチャになりながら残っていた。きっと、このドロップ缶を持っていた日本兵士は、渇きを癒すために一粒ずつ、ドロップ飴を戦友と分け合い、最後の時まで数粒を残したまま倒れたのだろう。
広大な塹壕陣地帯やその周辺には、両軍兵士の遺留品が多数残されて、80年の時を超えて知られざる激闘の一端を私たちに知らせてくれていた…。
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