共産党人生の徒然 ―2
しんぶん「赤旗」に翻弄される
日本共産党員の日々
「赤旗」部数の後退は、党活動そのものをやせ細らせる
日本共産党の活動で最も特色ある内容である機関紙活動の柱、しんぶん「赤旗」の部数がじりじり減り続けています。何しろ、長年にわたり三〇〇億円前後の収支で推移してきた同党中央委員会の年間政治資金のうち、およそ七割前後を占めるのが日刊と週刊(日曜版)の「赤旗」発行・配達による収入ですから、事態は重大です。
党員と共にしんぶん「赤旗」読者は、日本共産党の存在にとって欠かせない土台です。ところが、特に二〇〇〇年代半ば以降の部数下降ぶりには顕著なものがあります。日本共産党中央委員会発表数字をたどってみると、二〇〇六年一月の第二四回党大会時で日刊紙、日曜版合計で一六四万部だったものが、二〇一〇年一月の第二五回党大会時では同一四五万部。それから一年ちょっと経った二〇一一年四月時点で一三二万部(日刊紙が二四万部であるから日曜版は一〇八万部ということになります)まで落ちているのです。つまり、だいたいこの間、年五~一〇万部前後も減らしていることになりますね(現在では合計一〇〇万部を切っています)。
この急激な「赤旗」衰退ぶりと、日刊「赤旗」発行の危機【※1】が党勢拡大に長期間取り組む「大運動」の提起と日刊「赤旗」購読料の値上げ(税別で月二、九〇〇円を三、四〇〇円に)の動機となりました。
「党機関紙『赤旗』の発行部数は、党と国民との結びつきのバロメーター」「党員拡大とともに機関紙拡大は党建設の要」と、日本共産党入党以来、何かにつけ頭に叩き込まれてきた「赤旗」。自分自身の党員としての活動も、月ぎめで購読や集金がされるしんぶん「赤旗」の拡大、配達、集金でその大きな部分が占められてきました。
一九八五年秋、党職員となって党活動の裏側(というか全貌)を知る立場になって驚いたのは、共産党組織の仕組みと活動の全てが「赤旗」の流通と経費回収を軸として組み立てられ、それがかなり膨大な規模に達していたことです。党の末端職員が日常的に勤務する地区委員会の事務所は、事実上その半分が新聞販売店の機能で占められていましたね。
一九八〇年代の最盛時、「赤旗」は日刊、日曜版(週刊)を合計して三五〇万部弱の発行規模に達していました。毎朝、毎週大量に発行される「赤旗」は、主たる印刷所(地方版に対応するための印刷所も地方ブロック別に置かれています)からまず全国三〇〇を超える党地区委員会(政党地方支部にあたる)へ配送されます。更に地区委員会(「赤旗」出張所)による直接配達で読者に届けられたり、党支部(地域、職場、学園等)の配達センターに仕分けされて配達者がそこから自分の配達分を受け取って読者に届けられたりします。
日刊紙はこれが毎日、一年を通して早朝一気に行われるし、日曜版については毎週半ばからの作業となり、読者の手元には週末までに届くようなサイクルで活動が組み立てられています。地方党機関の党専従は、このような「赤旗」の配達手配活動に大きく手をとられているのが現状です。
したがって、「赤旗」の部数が減っていくということは、日本共産党の活動の根幹部分がやせ細っていくということに他なりません。この活動システムの中で月末には紙代回収のための集金活動が展開され、その主要部分が党中央委員会の財政基盤となっているのです。ですから、「赤旗」の部数減は活動の幹が細くなるだけではなく、その財政基盤まで危うくしていくことになります。
※1 日刊紙だけの勘定で見るなら、部数減による採算割れが原因で二〇一一年春頃までは月二億円の赤字を出し続けていました。私が党地区委員会の職員として「赤旗」に関わっていた一九八〇年代当時でも、「日刊紙は一〇〇万部くらいいかなければ採算ラインを超えて増収までいかない」と言われていました。当時はたしか、四〇万部くらいで現在の二〇万部弱よりかなり部数が大きかったのに、赤字体質だったのです。
「赤旗」中心の活動は、「レーニン型前衛党」の組織モデル
かようなまでに日本共産党は、しんぶん「赤旗」中心の組織体質となっています。なぜ、ここまでしんぶん=党機関紙の発行と配達・集金活動を軸とした党活動にこだわるのでしょうか?それは、「労働者階級の前衛党」という概念の提唱者、ヴラジミール・イリイチ・レーニン(一八七〇〜一九二四)の思想まで遡ることができます。
レーニンは、ロシア革命成就をめざす過程について、強大な専制権力(帝政ロシア)を倒し労働者・農民の権力をうちたてるためには、メンバーが自由意思に基づいてサークル的に活動するような社会主義政党ではなく、「鉄の規律」を思想面・行動面でも貫ける「労働者階級の前衛党」が必要と喝破。そうした党建設の出発点として、「全国的政治新聞の発行」を主張しました(レーニン主要著作として有名な『何をなすべきか』『一歩前進、二歩後退』では、「少数精鋭の職業革命家(=党専従)を持つ党組織をつくる」ことと共にメインテーマとなっています)。
彼によれば、党機関紙たる「全国的政治新聞」は、党という「建物」を建設していくための「工事足場」となり、また政治的司令部としての党指導部と地方党組織及び党員、支持者を結ぶ「血管」の役割も果たす。「全国的政治新聞」の配達・集金網の構築によって、党を支える募金網も組織する。こうしたスタイルを確立してこそ、インテリゲンチャ(知識層)中心の気ままで「手工業的」な党活動形態を脱し、労働者階級の「戦闘組織」に相応しい近代的軍隊のような党活動を作り上げることができるというのです。
以上のような党建設をめざす派閥として、レーニンとその同調者は一九世紀以来のマルクス主義政党であるロシア社会民主党の中にボリシェビキ(多数派の意)を形成しました。これが、後のソ連共産党の母体です。
一九一七年のロシア革命勝利は、全世界の主要な共産主義者からレーニン的な党活動スタイルの正しさの証明とみなされました。そして、一九一九年にコミンテルン(国際共産党組織、第三インターナショナル)がモスクワを本部に結成されると、その各国支部たるべき世界各地の共産党では、「レーニン型前衛党」の組織形態が一般的なものとして普及しました。「民主」と言いながら、事実上の「上意下達」「異論排除」の組織原則として悪名高い民主集中制(民主主義的中央集権制が正式呼称)も「レーニン型前衛党」の重要な特質です。
一九二二年七月一五日、コミンテルン日本支部として結成された日本共産党も「レーニン型前衛党」としての性格を当初から明確にしていました。非合法化で体制転換をめざす党にふさわしい「軍隊のような党組織形態」と日本のメンバーからみなされていたのです。
しかし、「前衛党」にとってもうひとつの欠かせない要素である党機関紙「赤旗」(当時は「せっき」と読む)の創刊は、当局の厳しい共産党弾圧下、一九二八年にようやく実現するに至りました。しかし、それも一九三五年に最後の党中央委員だった袴田里見【※2】が検挙されると、組織的活動が不可能となり「赤旗」発行も戦後、日本共産党が再建されるまで途絶えることになりました。
まあ、一言で「レーニン型前衛党」と言っても、それぞれの国の共産党がおかれた状況はさまざまですし、「全国的政治新聞の発行」など革命成就まで一向にできなかった中国共産党のような例も多くあります。しかし、少なくとも日本共産党の歴史を振り返るなら、戦前期も非合法地下活動の困難な中で、機関紙「赤旗」の発行を続けそれを秘密の印刷所からあらゆる手立てで極秘発送し、各地の党員や支持者(古くは「シンパ」と言いました)の手で配布されました。それこそ当局の監視と弾圧の手をすり抜けながら、命がけで届けられ読まれたのです。文字通り、それが戦前期の日本共産党員の活動の相当に大きな部分を占めるエネルギーをつぎ込んだ営みだったようです。
私は入党したばかりの一九七九年、戦前に機関紙「赤旗」の印刷所選定と全国発送を担当した老党員から話を聞いたことがあります。当局の取り締まりから逃れるために、毎回の印刷所を移動し、刷り上がった機関紙は別の印刷物のように見せかける梱包をして、列車便などで地方の受取人に発送したそうです。
結局、この老党員も「赤旗」発送などの党活動途上で検挙され、特別高等警察【※3】から「取調べ」と称して激しい拷問を受けた上、起訴され実刑判決により服役を余儀なくされました。それから四〇年以上たっていたのですが、「拷問で受けた傷の後遺症で、腰がまったく動かないんだよ」と生々しい話をしてくれましたね。
戦前期の非合法活動の中で、党機関紙の発行と配送等は本当に命がけだったわけです。「レーニン型前衛党」にとって、それだけ核心的な活動といえるものなのですね。この伝統は戦後も受け継がれ、より大規模な形で発展させられます。
特に宮本顕治が党書記長に選出された一九五八年から、党機関紙「アカハタ」【※4】の大衆的普及(機関紙拡大)が党建設の重要な柱として位置づけられました。翌一九五九年には週刊紙「アカハタ日曜版」が創刊され、党員や従来の支持者を超えた一般読者獲得の戦略がより明確に打ち出されました。
※2 一九〇四年、青森県出身。労働組合活動を通じソ連に接近。一九二五年にソ連の東方勤労者共産大学(クートヴェ)留学、一九二六年にソ連共産党入党。一九二七年に帰国してから、日本共産党で活動。党中央委員時の一九三三年一二月、宮本顕治(一九〇八二〇〇七)と共に死亡者一名を出す陰惨な「スパイ監禁・査問事件」を起こしますが、一九三五年に検挙。太平洋戦争終結で釈放されるまで、「非転向」を貫きました。戦後は党副委員長に。一九七七年に宮本顕治委員長を批判したことをきっかけに、党除名。筆者が入党した頃は、まだ「袴田除名」の余波が続いており、「反共クリーンパンフレット」なる袴田批判のパンフレットの普及活動が大々的に行われていました。ひとりの人間をよくここまで攻撃できるものだと、面食らいましたね。
※3 通称は「特高警察」又は「特高」。一九一一年、幸徳秋水らが天皇暗殺を企てたとされる大逆事件を機に警視庁に設けられた内務省直轄の過激思想・団体取締りを任務とする特別高等警察課がその始まり。日本共産党設立の翌年である一九二三年には主要九府県の警察部に置かれ、一九二五年の治安維持法公布を経て、一九二八年には労働・左翼運動の勃興を受けて全府県の警察に置かれました。「国体の転換」を企てる者は最高刑死刑で取り締まる治安維持法を後ろ盾にしていることもあって、取締りや尋問は厳しく、事実上の拷問によって共産党員作家の小林多喜二など党員幹部の何人かが尋問中に死亡したため、国民にもその存在を恐れられるようになりました。筆者は、築地警察署から小林多喜二の遺体を引き取った故・青柳盛雄弁護士(一九〇八〜一九九三、一九六九年より日本共産党衆議院議員を二期務める)から拷問によって傷だらけとなった遺体の凄まじい様子を直接聞いたことがあります。一九四五年一〇月、GHQ指令で治安維持法が廃止されると共に組織としても廃止。
※4 日本共産党機関紙「赤旗」の呼称は、創刊以来、何度か読み方や表記が変更されました。創刊時の一九二八年から戦後復刊されてからの一九四五年末頃まで「赤旗」(「せっき」と読む)、一九四六年一月からローマ字で「AKAHATA」、一九四七年七月からは「アカハタ」、一九六六年に「赤旗」(「あかはた」と読む)という具合に変遷しました。たしか、筆者が共産党職員になった一九八〇年代頃からしんぶん「赤旗」と呼ぶようになったと思います。日本共産党中央機関紙「赤旗」よりも、かなりソフトなイメージですね。とっつきやすさを狙ったのでしょうが、なにか中途半端な新聞みたいな性格になったようで、低迷の要因のひとつになった気がしてなりません。
「新聞拡張」と集金・配達に追われ、「大衆運動」は進まず
…「ブラック企業」そのものの党活動
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