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思い返すほどに情けなくなる映画こと『関心領域』について


 昨晩ペンデレツキの『ルカ受難曲』を流しながら眠ろうと思ったらあまりに怖すぎて数十秒で再生を停めた田畑佑樹ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。数週間前に『関心領域』を観てからペンデレツキづいてるのは、あの映画が救い難い出来で、代替の充実をポーランド出身被戦災者の音楽から得ようとしてるからでしょうね。改めてイヤフォンで『広島の犠牲者に捧げる哀歌』聴いてたら、もうなんか発症するかと思ったよ。『関心領域』全編より『広島の犠牲者に捧げる哀歌』数小節のほうがよっぽど雄弁。
 あの映画を観る前の私は、ジョナサン・グレイザーに対して “音楽の力は信じているが映像の力は信じていない者” 、 “最初から映像に関して敗北主義” と書きましたが、今では「音楽と映像の両方から力を引き出す能力に欠けているが何故かダラダラと表現に携わり続けている者」と下方修正する必要に迫られています。具体例を出しますよ、『関心領域』はまず真っ暗な画面をバックにオープニング楽曲が流れて、中盤以降には画面全体が白と赤の色それぞれにフェードする箇所が挟まれるのね。言うまでもなく黒・白・赤はナチ党旗の色だからでしょう(「ホワイト・ストライプスの黒・白・赤はペパーミントキャンディの配色から採ったんだ。いちばん強力な色の組み合わせだと思うんだよ。コカ・コーラからナチスまでさ、大衆の心を打つんだ」というジャック・ホワイトの迷言を思い出しますね。もし私が本格的な『関心領域』批判を書くならこれをエピグラフにしますよ絶対。そんな鬱陶しい仕事、600万円くらい稿料もらわなきゃ絶対したくないけど)。でもね、画面が赤色にフェードアウトする場面、そこでの音楽(音声ライブラリによる演出意図は置いといて、単純に劇伴音楽)の使われ方が本当に酷いの。私あの場面が終わった直後、映画館の中で「? おい、何だ今の。ちょっと巻き戻せ、なん、勝手に先進めてんじゃねえよ。何だあの音楽の切り方は? どういうつもりでやった? おいジョナ公、出てこい、てめえ監督だってんならちゃんと説明できるだろコラ」って情動に巣喰われちゃって、座席蹴ってスクリーンに詰め寄らんばかりの憤激を抑えるのに必死だったもの。
 さんざ引用されてるだろうけど、『関心領域』の音楽を担当したミカ・レヴィは劇映画として相当の曲数を作ったものの、「音楽が場面の演出に資しすぎるから」って理由で多くが不採用にされたのね。それでオープニング/クロージングテーマの間に殆どサウンドエフェクトみたいな曲がぽつぽつ挟まれるだけの役目になったわけですけど、レヴィの心情を忖度するに、「(広く賞賛を受けたし名も売れたけど)あの映画に関わって損したな正直」と思ってますよ。映画内であんな音楽をやられて憤らない人なんて『告白』や『Whiplash』を褒めちゃうタイプの輩以外には居ないでしょ。マジで今からでもいいから、映画ライターは「あの赤い画面での音楽ブツ切りはどんな演出意図で?」と取材しとくべきよ。「まさか音楽を寸断すれば “ゴダールっぽいね” と思ってもらえるとでも?」くらいの圧は当然かけてさ。
 今更こんなことを書かなきゃいけないこと自体が心底不毛ですけど、いわゆる集団による創作を成り立たせたければ、作品に携わったスタッフ全員に得させないとダメでしょう。リスペクトみたいなお題目じゃなくてさ。これ書いてる私は今月頭に新曲出したばかりですけど、それのイラストレーションを担当してくださったメグリム・ハルヨ氏から「ビデオ内で本当に良~い使い方をしていただけたので大変に嬉しいです」ってメール(原文ママ)頂いて、こちらこそ嬉しかったのは勿論、それ以前にまず安堵しましたよね。自分の楽曲関連の依頼するには相応の意図と目標(言い換えれば「勝算」)があるわけだから、まず作品自体の出来を協働者によしと思ってもらえなきゃダメなわけ。FinalCut ですらない iMovie で必死こいて編集した甲斐があったなあと思いましたし、何よりひとつの作品として氏の絵と私の音がちゃんと噛み合ったことに安堵したわけですよ(「始めと終わりに絵を挟むだけ」って編集の狙いが氏に過不足なく伝わったのも嬉しかったしね。ボカロ関連のMVばっか観て脳が腐った奴らは、「発注した一枚絵をバックにでっかい字を次々表示」っていうクソみたいな編集を平気でやるけど、それだけは幾重にも避けなきゃならなかったのよ。なぜならメグリム・ハルヨ氏はネクロテックっていう、図像と文字の双方を特異な比率で組み合わせた表現を続けておられる画家だから。その人の絵のうえにズケズケと文字載せたら台無しでしょう)。ここまでやれてようやく非アマチュアなんじゃないの? 他にも今 Parvāne でギター弾いてくれてる人から「田畑くんの曲やってると(自分が)上手くなった気がする」と言ってもらえた時はそりゃあ嬉しかったですよ。自分の作品に携わってもらう以上は、成員各々が持つ本来の力以上のものを引き出さなきゃダメだろ。ミュージックビデオ出身の映画監督ことジョナサン・グレイザーに問いたい。その出自を持ちながら音楽家の仕事を中っ途半端に貶すような作品を出すって、一体どんな了見してるんですかね?

 もちろんミカ・レヴィの楽曲自体は素晴らしいですよ、ペンデレツキより怖くはないけど。世評どおりクロージングテーマは素晴らしいですよね、私も大好きよあの曲は。あれを「不協和音」って評してる人が多いみたいだけど、オクターヴ違いの単音だけが周回してる曲だから本当は「和音」ですらないんですよ。ただ循環するフレーズの調性が外れるっていうか、平均律内で提示された音がどんどん微分音の領域にまで(放置された死体が腐敗するように)膨らんでゆく・箍が外れてゆく造りになってるの(だから私「2代目ペンデレツキ襲名」って評したのよ)。つまり西洋基準の理性=平均律が失調してゆく様を「西洋の没落」こと大戦のモチーフに当てこんだわけね。もちろんこれでさえグレイザーの意図よりはほぼレヴィ独力の達成ですけどね。あとひたすら上昇音階なのにあれだけ気が滅入る(King Crimson 『Red』の7倍くらい陰鬱な上昇音階。そういえばあのアルバムのデザインも黒・白・赤の3色だ。関係無いだろうけども)ってのも凄いし、全く報われない死者の魂が昇天するが如きフレーズで終わる一方、映画のラストシーンは「階段を下降してゆく男」の姿だったのもいちおう気が効いてますよね。グレイザー自身がそこまで考えたかどうかは甚だ怪しいけどさ。
 と、ここまで書けば「お前はあの映画を見せられて何も身につまされなかったのか」云々とさえ言われかねないから、グレイザーが決まり文句のように繰り返してる「この映画におけるナチの家族たちの姿は現在の我々と同じなのではないか」との問いかけにも答えときますよ。

〔後略〕


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