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10年後の『薄紅デイトリッパー』論 (Arctic Monkeys 『Brianstorm』から Ado 『初夏』まで)

【西暦2025年1月3日に付された前註】
 ここに公開されるのは、かつての筆者が西暦2014年12月31日に著した『薄紅デイトリッパー』ビート構造分析の再公開版である。
 なぜこのタイミングで再公開したかというと、つい先週に筆者が Ado 『初夏』評をポッドキャスト形式で収録しようと試みた際、「さて、『千本桜』で多用されているビートの先鞭は Arctic Monkeys セカンドアルバムの時点で既につけられており、そのビートに “サンプリングミュージックである音頭” の意味性をも導入した画期的名曲が『薄紅デイトリッパー』であることは皆さんご存知ですよね?」というリズム構造分析の内容だけで徒に時間を取られてしまい、まさにその経験によって、10年前と比べてもリズムおよびビートへの感覚がいっそう薄弱になっている日本国人のために本稿を公開しておくのは筆者にとって必要どころか義務でさえあると自覚されたためである。



(作曲・編曲:fu_mou 作詞:オノダヒロユキ)
(『紅白アイカツ合戦』アーカイブ)

 昨日(12/30)放送の番組『紅白アイカツ合戦』にて、DCD(データカードダス)次シリーズにて公開予定の新曲『薄紅デイトリッパー』のショートバージョンが解禁されました。
 この楽曲は、いち『アイカツ!』楽曲として優れているのみではなく、00年代以降のバンドサウンド傾向に関する批評性と、日本のトライバルダンスミュージックとしての音頭に対する深い理解のもとに作られた途轍もない名曲だと確信しました。
 この記事は、『薄紅デイトリッパー』を構成する要素について段階的に分析しようと試みるものです。


◇概要(2000年代中盤以降のバンドサウンド・および “踊るロック” の陳腐化について)

 楽曲そのものに触れる前に、まずは「00年代以降のバンドサウンドにおける “踊れる” ビート」について概観しておかなくてはなりません。この要素への考察なくして、『薄紅デイトリッパー』の革新性を語ることは不可能だからです。

 まずは、この楽曲を聴いていただきましょう。

 アークティック・モンキーズの2ndアルバム『Favourite Worst Nightmare (2007年)』は、日本で共有されている “踊るロック(のちにタワーレコードのキャンペーンで付与される名称)” の概念を理解するために恰好の作品です。
 リードトラック『Brianstorm』を一聴しただけで、「デッッ デッッ デッ  デッッ デッッ デッ」という一定のビート(Fig.1)が使われていることに気付くでしょう。このビートは同アルバムの中でも繰り返し使われています(『D Is For Dangerous』など)。本文内ではこれを「ブライアンビート」として仮称します。

 この「ブライアンビート」がいかに急速にシーンに浸透したか、についてはこちらの曲たちを聴いていただければ明白でしょう。(*1  *2) 
 殊に日本のインディーバンドにおいて「ブライアンビート」は親しまれました。それは「アレックス・ターナーのいないアークティック・モンキーズ」を自称するThe Mirraz が当該ビートを多様していることからも明白です。
(その一方で本家アークティック・モンキーズは、ジョシュ・オムのプロデュースのもと、今までにはなかった3連主体のビートやザラついたサウンドプロダクションを導入して3rdアルバム『Humbug』を完成させるのですが、それはまた別の話)

 ともあれ、ここで踏まえておかなくてはならないのは、「“ブライアンビート” の浸透に伴い、 “踊るロック” ・あるいはバンドサウンドそのものが急速に陳腐化してしまった」という事実です。
 先に挙げた多数のバンドを聴けばわかる通り、「デッッ デッッ デッ」という「ブライアンビート」は「とりあえず使っておけば踊れる」ような安易なクリシェに堕してしまったのです。日本のロックバンドのビートに対する意識の欠如は、現在でも拭い去りがたい病巣として残ったままである、というのが私見です。


◇『薄紅デイトリッパー』影響元の分析

 さて、『紅白アイカツ合戦』でお披露目されるとともに、『薄紅デイトリッパー』はとある既存楽曲との類似性を指摘されました。ボーカロイド楽曲『千本桜 (2011年)』です。

『千本桜』を聴いていただければ、もうイントロから「デッッ デッッ デッ デッッ デッッ デッ」式のビート(ブライアンビート)の影響下にあることがわかります。『薄紅デイトリッパー』でもイントロの1小節に「ブライアンビート」が導入されていますし、この2曲は比較を避けられないものでしょう。

 しかし『薄紅デイトリッパー』は、『千本桜』より以前に発表された楽曲を影響の源流として汲んでもいます。
 1970年発表の楽曲『二十一世紀音頭(歌唱:佐良直美)』です。

 一聴していただければ、『薄紅~』のBメロは『二十一世紀音頭』の引用ともいうべきフレーズになっていることに気付くはずです。

 では、『薄紅~』は過去の楽曲を都合よく引用しただけの曲なのか? そうではありません。むしろ、過去のいくつもの既存楽曲・既存ジャンルの文脈を取り入れることにより、『薄紅~』は単独で豊かな情報量を獲得しています。それを分析するには、「サンプリングミュージックである音頭」という文脈を理解する必要があるでしょう。


◇サンプリングミュージックである音頭

 ここで、タマフルでの音頭特集『音頭ディスコNIGHT特集』における、音楽ライター大石始氏の『東京音頭』 への言及を参照してみましょう。
(以下引用)

大石始(以下:大)「実はこの『東京音頭』、元ネタがあるんですよ」
宇多丸(以下:宇)「元ネタ?」
大「一番オリジナルは、昭和八年(1933年)の、小唄勝太郎さんが歌ったバージョンがオリジナルとされてるんですけど、その前の昭和七年に、『丸の内音頭』っていうのがあるんですね。それは丸の内界隈の商店街の方が、お客さんがですね、銀座に流れてしまって。これは盛り上げないとマズいぞっていうので、日比谷公園で盆踊り大会を企画したんです。そのときに作られたのが『丸の内音頭』」
宇「じゃあ、(『東京音頭』は)最初は『丸の内音頭』だった? メロとか同じなんですか?」
大「まったく一緒なんです」
宇「へぇ~」
大「歌詞だけが、翌年に『東京音頭』として出たときに少し変えてリリースされたと。(略)『東京音頭』の「チャンカチャンカチャンカチャンカチャンカ」ってイントロは、あれもまた元ネタがあってですね」
宇「別にあるんですか?」
大「あるんです。『鹿児島おはら節』っていう民謡があって、それが当時ブレイクしていたヒット民謡だったと」
宇「売れてる曲なんですか! あまり知らない曲からパクってきたんじゃなくて?」
大「売れてる曲・流行ってる曲をイントロに入れて。なおかつ、その出だしの ハァーッ って歌い出しありますけど、あれもオリジナルシンガーである小唄勝太郎さんが同じ年にヒットさせていた『島の娘』という曲があるんですけど。それのフレーズを引っ張ってきてるんですね」
宇「はぁ~っ……サンプリングっていうか、マッシュアップっていうか」
大「当時流行っていた曲を繋げあわせて、こんなの売れないわけない的な曲なんですよ」
宇「その発想が当時からあったんですね。当時聴いてる人はその文脈をすべてわかって聴いてたわけですね」
大「そうですね。だから『東京音頭』っていうと、たとえば伝統的な音頭って思うかもしれないんですけど、そんなことなくて。たかだか80年前の流行歌を繋ぎあわせて作られた、マッシュアップした曲だと。それが80年後も踊られてるっていうのが素晴らしいですね」

 (引用以上)

 上述の大石氏の文脈を踏まえると、日本の “音頭” というトライバルダンスミュージックは、当時の流行を敏感に取り入れたサンプリングによって成り立っていたということになります。

 ここで、『薄紅デイトリッパー』の話に戻りましょう。
『薄紅~』は、00年代中盤からの「間違いなく踊れるビート」こと “ブライアンビート” を継ぎ、および十代に絶大な人気を誇るボーカロイド楽曲『千本桜』と類似した楽曲でもあることを確認しました。さらに『二十一世紀音頭』からの引用までも含んでいるという、まさに多様なサンプリングの集積のような楽曲なわけです。
 そう、『薄紅デイトリッパー』は、まさに前世紀におけるサンプリングミュージックである音頭の様式をアイドルソングに適用した・真の意味で “音頭” を再現せしめた楽曲だと言えるわけです。

 では、『薄紅~』のサンプリングの元ネタがいかにして活用されているのか? 次の項目ではそれらを詳らかにしていきます。 


◇『薄紅デイトリッパー』楽曲構成の妙

『薄紅~』は、Aメロ・Bメロ・サビという歌謡曲の様式に沿っています。
 この曲が出色しているのは、その同セクション内における色分けの見事さ(主にビートの使い分けによる)です。簡易な構成表を用意したのでご覧下さい。

 注目すべきは、イントロからAメロに入る瞬間の露骨な「落ち」のビートです。
 イントロの1小節で「ブライアンビート」のキメが入った直後、Aメロではドラムスが(ほとんど)不在の、しっとりとした雰囲気に変わります。「絶好の旅日和ね」のパートでドラムスが入るまでは、ピアノとボーカルが支配するだけの粛々としたサウンドです。
 この点を『千本桜』の構成と比較してみても面白いでしょう。『千本桜』はイントロのノリのままAメロでもドラムスがアップなビートを刻んでいるのに対し、『薄紅デイトリッパー』はあえてビートが落とされ、楽曲全体の抑揚が付けられています。

 さて、注目すべきはBメロです。
 直前のAメロでのビートがハーフになり、ここで前述の『二十一世紀音頭』からのサンプリングフレーズが歌われるわけです。ビートが控えめになった分、ボーカルが優美に響く構成になっていることは言うまでもありません。
 ところが、Bメロの後半(「しゃなり しゃなり」)ではビートが一変します。ハーフビートで抑えめだった曲調に、ここで唐突に「ブライアンビート」が入るわけです。
 この瞬間に「音頭=サンプリングミュージック」としての様式の妙味が凝縮されています。なぜなら、ここでまさに「1:日本のトライバルダンスミュージック=音頭からの引用フレーズ」と「2:近代のポップミュージック=踊るロック・ボカロからの引用ビート」という、ふたつの要素が結合されるからです。

「しゃなり しゃなり」からのパートを聴いていただければ、『二十一世紀音頭』のボーカルと「ブライアンビート」が完全に調和していることがわかるでしょう。このふたつの要素をひとつの楽曲の中で両立させてみせたことに『薄紅デイトリッパー』の真のオリジナリティがあるのです。Bメロの初めでハーフビートにしていたぶん、この両要素のマッシュアップがより鮮やかに際立ちます。イントロからBメロまでの曲の流れは、すべてこの瞬間のために演出されていたといっても過言ではないのです。


◆追補(10年後の『薄紅デイトリッパー』と「初尻のリズム」について)

 さて、この段落までの間に10年の時が流れた。

 本項を始める前に、新たに「初尻のリズム」とでも呼ばれうる拍(とくにメロディライン)の付け方について補足しておきたい。この用語はあくまで筆者独自の命名により、作編曲の現場で共有されているジャーゴンではない旨おことわりしておく。
 まず「初尻」とは、士族階級によって統治される封建制の日本(とくに安土桃山)、そこで営まれる衆道文化において、まだ大人の逸物を自分の菊座に迎え入れたことがない小姓(の尻の状態)を指す。「初尻」は直接的に「まだ突き破られていない」状態を意味し、筆者はこの表現を「(隣の小節と)タイによって音符が繋がれていない」状態の譜割、つまり「シンコペートしていない=突き破られていない」リズムを指すものとして使う。
 本稿で名付けられた「ブライアンビート」は、付点8分・付点8分・8分で2分音符ぶんの空間がくっきり占拠されるという意味で、シンコペーションを必要とせず・そのリズムフィギュアの連続のみで延々と楽曲を繋留しうる(『千本桜』のイントロがそうであったように)。よって「ブライアンビート」は「初尻のリズム」の代表格的存在であり、このビートがまだ年若かった頃の Arctic Monkeys や(ちなみに『Teddy Picker』のボーカルとギターリフも「ブライアンビート」とは別形ながら・1小節のみでそのフレージングの音符がすっぽり収まる「初尻のリズム」類型である)・言うまでもなく文化そのものが稚い「ボカロ」界隈によって重宝されたのも、その譜割そのものに由来する「幼稚性」からして当然だったと言えるだろう。
 対して、シンコペートするリズムを前提として作られた(Luna Sea の『Rosier』、凛として時雨の『Cool J』、 My Chemical Romance の『House of Wolves』など、常に弱拍にアクセントが置かれる)曲は、常に小節線が突き破られているからして「非初尻=成人」的である。となれば『薄紅デイトリッパー』における「初尻=ブライアンビート」の導入は、その幼稚性を直後のサビでいきなり突き破る(言うまでもなく、あの曲のサビは「めですね/つようね」の位置でシンコペートしている)ことによって突貫の感覚を倍化させるための工夫・つまり「このあとスムースに突かせたいから敢えてお尻キュッ」だったのではないかと思われる。言うまでもなく筆者は、シンコペーションのリズムを「セクシーで経験豊富なお兄さん」として高く評価し/「初尻のリズム」を「魅力的かもしれないが幼すぎるし見識も浅いからまともに同衾する気にもらない小童」として低く評価している。
 ここで論を閉じるわけにはいかない。昨年末に筆者が一定の分析を加えようと試みた Ado の楽曲『初夏』は、一貫して「シンコペートしていない=突き破られていない」、つまり初尻のリズムで作られている。これに関しては、リスナー諸氏が当該楽曲を聴きながら拍を取ったなら即座に納得されるであろうので、具体的な譜面の表示などは不要だろう。
『初夏』のメロディラインに込められたリズム的工夫といえば、せいぜい前打音(前小節の最後尾に8分や16分で配置される音符。タイで後の小節に接続されないところがシンコペーションとは異なる)くらいで、特にサビでの「はこ|わー|され|ーて|ーし|まい|まし|たー」(|が1拍あたりの配分)という3・3・7拍子のような強拍頭打ちの箇所は、もしこのメロディを唄いながら羞恥のあまり膝から崩れ落ちることがないならばそのボーカリストは余程の音痴だろうと思われるほどに酷い。その他にもサビ末尾での無闇なスネア連打も含め、呆れるほど幼稚で素人臭いビートの数々で満たされてしまっている(作曲者よりもむしろ編曲者に返されるべき過誤だろう。ちなみに、日本国のみならず世界的にも稀なるリズム研究家・実践者として名高い菊地成孔氏は、この手の「日本国において大衆的に共有されている、貧しいモノリズム」を指して「左翼サンバ」という、実に含蓄深い呼称を与えている)。
 つまりこういうことだ。西暦2024年10月に発表された Ado の楽曲『初夏』には、その10年前に発表されていた『薄紅デイトリッパー』が音頭と「ブライアンビート」の双方を織り込んで実現させたリズム的批評性のような豊かさが全く存在しない。音楽を聴くにおいてリズムやビートの要素をまったく重要視しなくなった日本国人(もちろん作曲家や批評家も含む)の幼稚性、新たなリズムやビートの可能性を探究するどころか「3連ラップ」のように低能な譜割ばかり面白がるようになった2016年以降の世界的な音楽潮流の幼稚性、極めつけには「病んだ」精神性に纏綿するあまり基礎的な音楽的教養すら溶かし尽くしてしまった(例えば山中拓也や、あとは名前すら思い出せないが皮肉屋気取りで自身も他者もナメ腐った楽曲ばかり発表していたらいつのまにか聴覚障害を発症していたボカロPのような輩どもに代表される)2020年代「ボカロ」界隈の幼稚性。これら西暦2024年時点で出揃った、ありとあらゆる無残な稚気が凝固した結果として生まれてしまった世紀の駄曲が Ado の『初夏』だったのであり、その音楽的巧拙の雲泥ぶりは、まさに10年前の『薄紅デイトリッパー』と比較されて際立つリズム構造の差異によってこそ明らかになるのである。

 西暦2025年現在での「ボカロ」文化は、今や音楽のみならず世界的な文化潮流の只中に場所を占めたかのような顔で居直っているし、鮎川ぱての「ボーカロイド音楽論」講義のような小賢しい自己正当化の数々も営々と続けられているようだが、そもそも音楽の基礎要素たるリズムをいとぐちに我々が陥っている(あまりにも惨めな)文化的貧困の所在すら明らかにできないのならば、何を言ったことにもならないのである。


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