想像してごらん、イングランドとドイツが消滅した世界を


 ハリー・スタック・サリヴァンとマーロン・ブランド。この2名は私が目下通読中の書物を提供してくれた者らだが、いくつもの共通点を見出すことができる。まずは、アイルランドの出自を持つアメリカ市民として20世紀に活躍したこと。次いで、人間の心身にまつわる残酷なほどの分析を作品として残したこと。極めつけは、20世紀同性愛文化圏に多大な影響を及ぼしたスターであること。
 ブランドはともかく、サリヴァンがスター? と思われる向きには、彼の「著作」が直接的な談話(具体的にはワシントン精神医学校における講義やチェスナット・ロッジ病院長宅での討論)による収穫であった事実を再認識していただきたい。「閉鎖的ではあるが決して密儀的ではない内輪のサークルにおける談話の連続・そこで展開される数多くの明視」という意味で、サリヴァンの主催した会合は(やはり同じくアイリッシュのゲイである)フランシス・ベーコンのパブにおける美食と辛辣の社交を同質の後裔として持つ。
(今回のオチは『イマジン』の地口なので、先んじてジョン・レノンの言を引いておく。「若い頃の写真を見ると、僕はマーロン・ブランドのようになりたい自分と、繊細な詩人、つまりオスカー・ワイルドのようにしなやかで女性的な自分とに引き裂かれていた。」もちろんレノンも含めここで引かれている男性3人は皆アイルランドに由緒を持つわけだが、ここで「男らしい」方と目されているブランドもまた20世紀の同性愛文化圏に多大な影響を及ぼした事実が21世紀人たる我々の面に微笑を運ぶ。が、ここでふいに現出している「アイリッシュのゲイネス」はちょいと味見した程度で素通りを許される質のものではない。特に、ニール・ジョーダン監督映画のなかで『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』のみを過食して萌え狂う腐女子レベルの文化受容が未だに罷り通っている日本国においては、なぜブランドのようなむくつけき男があれほど「食われ」たのかを考えることは何物かでありうる。ここで述べた「食われ」とはもちろん、観客や同業者から憧憬されたり盛んに肉体関係を持ったりすることのみを意味しない。あくまで私見だが、ジョン・ウェインやジョン・フォードでさえ映画史的には相当「食われ」ている。)

 半年ほど前から私は、なぜかマーロン・ブランドの伝記的事実が気になってしょうがなかった。というのは、彼の日本語版 Wikipedia 記事には幼少期に受けた性的虐待云々が書かれており、もしかすると彼はチェスター・ベニントンらと同等の文化的カテゴリに属する者ではと思われたのである(即座に注釈するが、件の記述は事実に即しているとは言いがたい。現に Ermi という女性が当時4歳のブランドと結んだ関係を「虐待」と表現しているのは日本語版 Wikipedia のみである)。数週間前に U-NEXT を再契約した私は、マーロンの出世作たる映画版『欲望という名の電車』をおよそ10年ぶりに観直した。むしゃぶりつきたくなるほど美しい男の身体がそこに活写されていた、と述べるのみではこの映画の出色するところをひとつ摘んだにすぎない。年数相応に視界の靄が晴れた現在の私にとっては、『欲望という名の電車』は20世紀中盤までのアングロサクソンが抱えうる earthy かつ vulgar な心的機制の展覧会が如き映画であり、その数十年前にサリヴァンが理論化していた分野の視覚藝術的実践のようにさえ感じられた。『欲望という名の電車』の(映画に先行する)舞台版初演時にサリヴァンはまだ生きていた、と知ってもとくには驚かない。が、あの役柄を演じたヴィヴィアン・リーが実際に双極性障害で苦しんでいたという事実は、21世紀人たる我々の眉間を衝き刺さずにはおかない。人間精神の病がまだ人間精神の病らしくいられた時代。
 成人して間もない頃の私は、エリア・カザンを(主に50年代赤狩り期の所業によって)最も軽蔑すべき映画監督のうちのひとりに数えていたが、『欲望という名の電車』を観直した今では愚見を改めざるを得ない。しかし一方で、『波止場』はさほど良くない。あの映画で撮られた限りのマーロン・ブランドは、いささか野獣先輩に似過ぎている。頭部の輪郭周りがアンパンのように醜く膨らんでおり、その鈍重さが徹底的な役作りの賜物だとしても好ましくは観難い。しかしそれでさえも、当時のUSA国内における bum の容姿が克明に刻印された結果なのだとすれば、やはりブランドとカザンの双方を賞讃するしかない。見下げ果てた田舎者どもの巷で育ち・今でさえ(県は違えど)その只中で暮らしている私にとって、『波止場』はエキストラの面々に至るまで田舎のクズどもそのものが立像として現れ続ける映画(とは言っても舞台はニューヨークなのだが)であり、その「田舎のクズ顔」が20世紀中盤のUSAから21世紀中盤の日本国にいたるまでの時空的・文化的懸絶を越えて普遍性を備えているように思わされる。マーロン・ブランドが所在したのはそれほど物凄い仕事場だったのだ。
(ちなみに、川島雄三監督映画に出ている限りでの高見國一は、野獣先輩そっくりどころか本人である。というか川島映画内での高見を眺めていると、よくぞここまで「童貞の有害性」なるものが生々しく映され得たなと感心せざるを得ない。『女は二度生まれる』での高見は半端に快活で半端に鬱屈していてなおかつ女性をレイプするのだが、その所業が野獣先輩の顔で行われることの映像的意義については、先述した「bum の容姿の普遍性」を加味しながらの検討が繰り返し要されるであろう。)

 という流れで現在、ブランドの自叙伝というよりは回想録らしい内容の『母が教えてくれた歌』を読み進めているのだが、ちょっとここ10年間でも比類ないほど傑出した読書体験を得てしまっている。冒頭の序文数ページの内容を読んだだけで明らかな皮下の血流促進を自覚するほどの、辛辣なユーモアと冷たい洞察に満ち溢れた書物である(やはりサリヴァン的!)。
 その中で、ブランド本人によるシオニズムおよびイスラエル「建国」過程への所見が述べられているのだが、彼の公平な物事の見方はそこでも揺らいでいない。 “私はユダヤ人に育てられたようなものだ。ユダヤ人の世界で暮らしていたのだ。彼らは私の教師で、雇い主で、友人だった”と語るブランドは、同時に “ユダヤ的存在は遺伝子の問題というよりも、文化的現象なのである。それは思想なのだ。” ・ “その頃は、ユダヤ人テロリストがアラブ人を無差別に殺し、土地を得るために彼らをパレスチナから追い出していたことを知らなかったし、聖書のなかのユダヤ人同様に長いあいだ、パレスチナで暮らしてきたアラブ人を、イギリスが強制退去させていたこともわかっていなかったのだ。” と当時のUSA国籍人に期待するには過重な質の知性の声を遺憾なく・かつ謙虚に開陳している。そんなブランドが義憤を込めて非難したのが、 “イギリスは軍艦を派遣し、ベルゲン・ベルゼンやダッハウ、それにアウシュビッツの生存者をキプロスの鉄条網の内側に閉じこめようとしている” 当時の動向だった。“私たちはイギリスのパレスチナ退去を主張した。シナゴーグではベン・グリオン派と、私が応援していたテロリスト支持者とのあいだで激しい論争があった。テロリストは当時、「自由の戦士」とよばれていた。” ここでブランドが応援の対象としている “テロリスト” とはもちろん “スターン・ギャングやイルグーン団などのユダヤ人地下組織” であり、ブランドはそれらの団体の強硬的態度を肯うために “テロリスト” の呼称を敢えて選んでいるわけだが、前後の文脈を踏まえれば、ここで非難の矢玉を向けられているのはもちろん “軍艦を派遣し” てまでホロコースト犠牲者たちのパレスティナ流入を阻止しようとしたイングランドに他ならない。 “ヒトラーの強制収容所を生きのびたユダヤ人が、なかば飢えながらも新天地を求めて海を渡るのを、イギリスが阻止するなんて、とんでもない。” そして回想録出版当時のブランドは、 “今では私も、かつてよりはこの問題の複雑さを理解している。” と述懐して当該章を結んでいる。

 つまりこういうことだ。マーロン・ブランドの回想録『母が教えてくれた歌』では、驚くべき知恵が得難いほどの確かさで展開されている。それは、「所謂 “パレスティナ問題” を根付かせた悪として名指されるべきは、ホロコースト直後に安住の地を求めたユダヤ人ではなく、もちろんイスラエル “建国” 以前にパレスティナにて友好的に共存していたイスラームやユダヤ教の帰依者たちでもない。それはひとえに、世紀またぎで多数の地政学的奸策の糸を引くことによって “パレスティナ問題” と呼ばれる事象を織り上げた実行犯、つまりイングランドである」という明視なのだ。
 前段落の内容を否定できる者など、(少なくとも母国語で書かれた世界史の教科書を読むだけの識字能力を備えていれば)存在しうるわけがない。現在のパレスティナ、ならびにエルサレムを国民国家の美服で飾り拵えた偶像としてのイスラエルがあのような有様になってしまった原因は、直接的に19-20世紀におけるイングランドの政治的策略に求められるのだから。もし「待て、そのように単純な思考に流れてはいけない。この問題にはもっと複雑な側面がある、大局的な視野で検討されるべきだ」などと腑抜けた声音で言い募る者がいたとすれば、端的な陰謀論者として認定されるほかあるまい。そのような態度は、「サイクス=ピコ協定」や「フサイン=マクマホン協定」のような確証済の史実さえも虚偽だと断定しなければ保持され得ないのだから。いわゆる “パレスティナ問題” に複雑さなど一切纏わらない。東西ヨーロッパにおける反セム語族主義に力付けられた具体的な虐殺の散発が、西欧謹製の国民国家概念に身を沿わされた世俗ユダヤ教=シオニズムの思潮と合流し、そこに19-20世紀の大英帝国に裨益する卑劣な政治家どもが微笑とともに現れ、具体的な詐欺を働き続けた。それだけのことだ。どのような「フェイクニュース」に基づく修正主義によっても、この決定的史実だけは覆せない。

 そこで今、思うのだ。正直なところ、私も21世紀前半人的な思考の隘路に迷い込み、現在時においても各地で虐殺を繰り返している国民国家イスラエルを絶対悪と断定し、その成員の内部からどれほど膨大な犠牲者が出ようと一切同情するつもりもなかった。「パレスティナの犠牲者と同じ数だけイスラエル国民も殺されるべきだ」とさえ思っていた。が、そこに知恵の書物が訪ったわけだ、マーロン・ブランドの回想録『母が教えてくれた歌』が。その中に綴られた “パレスティナ問題” に関する公平極まりない記述を読んでしまった私は、いま考えを改めるに至った。パレスティナとイスラエルが共同で打倒すべき敵は別に存在する。 “パレスティナ問題” の只中で死を強いられた人々(それはもちろん西暦2023年10月以前からの流血に連なる)の存在を贖うために滅ぼされるべきは、国民国家イスラエルの内部で世俗化したユダヤ教徒たちでは必ずしもない。それは “パレスティナ問題” の直接的な実行犯であるイングランド、および前世紀中盤にセム語族に対し絶滅政策を採り・その政治体制が崩壊した後には一転して “パレスティナ問題” がらみの犯罪を正当化し続ける英米の腰巾着となったドイツ、これらふたつの国家である

 ナチス・ドイツの有罪性など今更述べるまでもあるまいから前段落末まで名指さなかったが、戦後に「ネオ・ナチズム」を「非合法化」して反省のそぶりを見せる一方でパレスティナ入植者の蛮行は一切咎め立てない現在のドイツ連邦共和国もまた、前世紀からの所業を現在形で引きずる世界史的犯罪者である。とくに「人種などという作為的なカテゴリに基づいて他者を迫害してはいけません」と当たり前にもほどがある道徳観さえ「人定法」の力に拠らなければ保ち得ず、さらにはその法制度を直接の原因として “パレスティナ問題” 解消のために貢献する契機を自ら放棄している、この茶番と呼ぶも愚かな惨状については、いくら批判の言辞を費やしても足りないほどだ。
 この段落の文を最後まで読んでいただきさえすれば誰でも賛同できるはずのことを書こう。機能的な絶滅収容所を実際に建設する方針に関して、アドルフ・ヒトラーは全く間違っていなかった。国民社会主義ドイツ労働者党およびその支持者は、ユダヤ人やロマや同性愛者たちではなく、当時に「アーリア人種」の「正当な後継者」を主張していた「ゲルマン民族」、その集団性に属するドイツ国民のみを絶滅させるべきだったのである。ナチス・ドイツという政治体制は本質的に「国家ぐるみの自殺」を目指すものであり、総統命令第71番の内容が「ドイツ人民の生存条件の破壊」であった事実などは誰でも知っている。「ヴァイマル共和政」の崩壊から第二次世界大戦終結にいたるまでの時期に、ドイツ人はひたすら自殺を望んだ。ならば、お望み通り死んでもらえばよかっただけの話なのである。もちろん先述のとおり、他「民族(もちろんナチズムの “民族” および “人種” 概念が珍奇かつ陳腐な恣意の塊である以上、 “ゲルマン民族” カテゴリから控除される他の “民族” 定義も同様にならざるを得ないのだが)」や「劣等人種」を巻き添えにせず、どうぞお好きに勇躍ヴァルハラへと向かっていただければよかった。にも拘らず、ごく少数のエリートの寡占的決定などではない大衆レベルでの支持と黙従をもって絶滅政策は実行された。ナチス・ドイツという政治体制の実現自体が徹底的に「民主的」な手続きに支えられていたこと、これもまた世界史上の動かし得ぬ事実である。そして20世紀のドイツによって引き起こされたこれら一連の罪過は、今なお全く贖われていない。現今の “パレスティナ問題” に関して、ドイツ連邦共和国は世紀またぎで悪の種を撒布し・芽吹かせた、イングランドと同程度に明らかなる元凶である。にも拘らず、目下続行している酸鼻を解消する意欲を見せるどころか、かつての西欧帝国と同じ入植と虐殺を繰り返す国民国家イスラエルの保全を前提としてのみ国際社会において発言権を持つ国として、現在形の犯罪者でありつづけることを望んでいるのだ。その体制を恥とすら思わず、「民主的」な手続きによって他国内における虐殺を肯定し、自国内ではユダヤ人に対する罪責感の鏡写しでしかない「反イスラーム主義」を養い続けるドイツ人は、そもそも今日にいたるまで生き延びるべきではなかった。もともと彼ら彼女らは、西暦1930-40年代に自らが捏ね上げた政治体制によって絶滅するつもりだった人々=かつての国民社会主義ドイツ労働者党およびその支持者の、だらしない無反省と自己正当化による惰性の生殖に連なる者でしかないのだから、もし自身がしがみつく国家の犯罪を償うための行いを何ひとつしないのならば、彼ら彼女らはかつての父祖たちと同じように愚行の偶像=国民国家と一緒に心中する以外の未来を持ち得ないのである。



〔後略〕


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