「無益の共和国」の覇権はいかにして覆されうるか(ミシェル・フーコーおよび丹生谷貴志を媒介として)
〔前略〕
さて、いきなり別のことを書こう。先日、丹生谷貴志氏による淀川長治氏への言及箇所をふいに読み返したくなり、当該文が収録されている『家事と城砦』を図書館から借りてきた。この本の装丁は(私が今まで手にしてきたあらゆる書物の中でも5本の指に入るほど)美しく、内容も劣らず素晴らしい。のだが、全体を読み直すにつれ、初読時にはさほどの感興を覚えなかった段落が、唐突に筆者の目を引いたのだった。以下のとおり引用する。
……再び……ギリシア人たちは「自由人」の世界を「肉体」を巡る倒錯的な世界として作り上げた。「その空腹を快楽に変えられないかな……」。つまりはギリシア的快楽主義であり、そしてそれは快楽に溺れることでは無論なくて、「肉体」の要求を、それへの隷属を片っ端から「快楽」に変え、それを管理する術、要するに「肉体における倫理」を意味した。それはむしろ複雑な節制の体系を意味するのである。例えば彼らは空腹と食事を分離し、そして(ローマ的美食と異なり?)、食事の快楽と美食への欲求を分離した。或いは性と生殖を分離し、そして性の快楽を「肉体の快楽」からも分離しようとする。何故なら美食の快楽や性の快楽が「肉体の快楽」となるとき、すでに「肉体」への隷属が始まってしまうからである。我々は「肉体」を悦ばせるためにではなく「自己」を悦ばせるために存在する! そこに倫理が生ずる。その倫理ーエチカにおいてギリシア人たちは社会全体を「肉体」への隷属に対する倒錯的で倫理的な闘争へ変えてゆこうとしたのである。過度に美化するのは無意味だが、ともあれギリシア人たちは「肉体」の要求を自身の運命として承認した後に、如何にしてその要求を命令から逸脱させ、そこから「肉体」が予想した、或いは「罠」として人間に提供するものとは異質の快楽を導き出し、そしてさらに如何にしてその快楽を管理し活用するかを巡る複雑な倫理からなる世界を編み出した訳である。それは「肉体」との「王と奴隷」の弁証法的駆け引きではなくて、「肉体」から予想外の快楽を引き出すと同時に「肉体」にその快楽を教育し、或いは「肉体」自身にそれが予想もしなかった新たな可能性を発明し提供する、「肉体」に隷属することなく、逆に「肉体」を自らの意思によって道具的に隷属させようとするのでもない、言わば相補的なネゴシエイトの関係、或いは「友愛関係」をうちたてることを意味するだろう。互いに互いを愉しみながら、互いに互いを、おそらくは無益な快楽と苦痛の中で死んでゆくアスレチックなエチカからなる世界を編み出すこと、これが彼らの発明であり、或いは「私たちは未だ肉体に何ができるのかほとんど知らない」と書きつけた時、スピノザが企画したものであるだろう。それは「肉体」への隷属を憎んでひたすら「肉体からの解脱」を夢見る晴朗にして陰惨な出家願望者たちからなる世界とも、或いは逆に「肉体」を道具として支配しようとしながら逆にその欲求に隷属してゆく世界とも異質な世界である(論理的に「出家者」の世界と「肉体の意思」からなる世界は互いに互いの滅亡を望むまでに激しく憎悪し合うだろう)。或いはさらに自らを「奴隷」と認定し、その認定において互いに互いを許し合おうとする「奴隷ー有益ー公益の共和国」の試みとも異質の第三の道を発明する営みだった(ヘーゲルが決定的に見逃したスピノザの可能性の中心)。そこでは、「肉体」を役立てようとするのでもなく、「肉体」の役に立とうとするのでもなく、繰り返すが、互いに互いの未知の快楽を発明しあいながら互いに互いの快楽と苦痛を死んでゆく「無益の共和国」を、或いはプルーストが夢見たように、互いに互いの悦楽を友愛の笑いの中で交換し合う「ソドムとゴモラ」を、極度の人工性故に壊れやすいが実存可能な「倫理的自由」の試みとして、発明し管理することが重要なのだった。……
記憶よりも一段落あたりの密度が高く、なおかつ〔中略〕を許さない内容であったためそのまま抜いた。ちなみになぜか OCR のアプリが機能せず、やむなく全文手打ちのフリック入力でテキスト化したのが上掲の引用文だが、実際に打ってみて初めて理解されたことがあるので書いておきたい。丹生谷氏の文体は、読者としてふれているぶんには清水を飲み下すように爽やかだが、いざ自分でなぞってみると結構な苦痛を伴う。それはもちろん氏の文体が明晰さへの注意に貫かれているがための特徴であろう(例えば、「互いに互いの」という表現の反復強調)。翻って思い出されたのは、数ヶ月前に松田修の著作集を借りて読んだ際、一段落あたりの文の息があまりに短いことに驚かされた際の記憶であった。
さて丹生谷氏が前掲文で言及していたのは、周知の通りミシェル・フーコーが「(古代ギリシア人の)生存の美学」を通して見出した理路であるに違いない。他ならぬ晩年のフーコー本人が、「私には古代の道徳の矛盾点と思えるものに、彼ら〔古代ギリシア人〕はすぐに躓くことになったんですよ」と「謎めいた失望」を述べ、かつて自身が抱いていた期待でさえ「私には、古代全体が〈深い誤謬〉だったように思えます」として切り捨てたことも知られており、「生存の美学」に関する理路を無闇に称揚する傾向を深く戒めたのが佐々木中の『夜戦と永遠』第3部であった。また丹生谷氏が西暦1999-2000年の間に連載した時評の集成が『家事と城砦』であり、佐々木中の『夜戦と永遠』も2008年に以文社から単行本化されたものが河出から定本として文庫化されている。ここで不図「まともな本を出せていた頃の河出書房新社」を追憶したくなるが、ともあれ筆者も当時の河出的思想圏の影響下に在る者としてこの文を書いている。
(もちろん、日本国の人文知において最も良心的だった学者=西暦2010年代中盤までの佐々木中と・一作も本を出さなくなったツイッター芸人=現在の佐々木中がまったくの別人であるように、日本国の人文知において良心的な出版社のひとつ=西暦2010年代中盤までの河出書房新社と・政治性に基づく闘争の論理よりも個人がソーシャルメディアから発する自己愛的な喘ぎのほうを高く評価するようになってしまった株式文芸部室=現在の河出書房新社はまったく別の出版社である。よりによって河出までもが新書を出しはじめた西暦2018-19年頃が「日本の出版界完全陥落」の時期に相当したであろうし、思えば筆者は当該時期から新刊図書を一冊も買っておらず、そのことを誇りにすら思う。図書館で借りてまで新刊を読んでみたとて、アブデヌール・ビダールの件のように根本からの否定を余儀なくされざるを得ない代物ばかりであったし、現在ほど「新しいものなど書かず、既に書かれているものたちを読み返すこと」が重要な意味を持っている時勢も無いのだ。)
フーコー本人の「謎めいた失望」はひとまず差し置いて、丹生谷氏による上掲文を現在時制(つまり西暦2023年夏)において再読した筆者の所感を書いておこう。とくに “プルーストが夢見たように、互いに互いの悦楽を友愛の笑いの中で交換し合う「ソドムとゴモラ」を、極度の人工性故に壊れやすいが実存可能な「倫理的自由」の試みとして、発明し管理することが重要なのだった” という著述を再読し、筆者は今更のように思ったのだ、「ああ、これってポケモンの世界のことだ」と。 “交換” という語から安易に連想されたのではない。“互いに互いを愉しみながら、互いに互いを、おそらくは無益な快楽と苦痛の中で死んでゆくアスレチックなエチカからなる世界” ・ “相補的なネゴシエイトの関係、或いは「友愛関係」をうちたてること” などの表現からも明らかだが、これは西暦2023年現在において(日本国内はもちろんのこと、アニメやゲームのフランチャイズ展開を介して東南・北東アジアや英語圏や西欧圏において甚だしく膾炙し、サンダーキャットやフライング・ロータスやデンゼル・カリー等のアーティストの作品内にて直接的なモチーフとして据えられるほど)世界的に享受されているオタク的「快楽」の世界、その素描として適用可能な先駆的内容である。 “ 「肉体」を役立てようとするのでもなく、「肉体」の役に立とうとするのでもなく、互いに互いの未知の快楽を発明しあいながら互いに互いの快楽と苦痛を死んでゆく「無益の共和国」” による統治手順は、すでに企業所有キャラクターのフランチャイズ展開によって全世界あまねく撒布されているではないか。もちろん丹生谷氏が見出した「無益の共和国」における様体は、菊地成孔氏がマーベル映画への評を通して浮かび上がらせた「第二経済」の市場そのものとしても適用可能であろう。
いやそれどころか、西暦2023年現在における「無益の共和国」の覇権は、古代ギリシアとは比較にもならないほど狡猾である。何故ならば、欲望する主体を男性のみに限らず、男女両性、いや数えられる限り全ての性の者らに市場への参与権を認めているからだ。
今更ながらの確認だが、フーコーが最終的に失望するにいたった「生存の美学」は、根本的に女性差別的・少年愛的(当然ながら、古代ギリシアにおける少年愛は男性のロールモデルとして称揚された社会的な制度の一部であり、現代におけるゲイライツ的な同性愛者の政治性として適用可能な余地はそもそも無い)な共同性に発していたが(思い出してしまったので書くが、金田淳子および藤村シシンという学者ヅラ下げた腐女子どもが Rhymester 宇多丸氏のラジオ番組に出演して男性器を意味するギリシア語を連呼しながら大喜びで古代ギリシアを礼賛していた様は、筆者の全生涯の音声聴取体験においても屈指の忘れたさを伴って残存している。偶然にも金田淳子は note アカウントを持っており、そのプロフィール欄には「フェミニスト」の記載がある。生前のフーコーでさえ女性差別的な形象として失望を表明した古代ギリシアに萌え狂っている女性の社会学者が、よりによって「フェミニスト」を名乗っているわけだ。そしてギリシア語できますよ的なツラで『古代ギリシャのリアル』なる本を出していた藤村シシンの経歴には、古代ギリシア古典の翻訳や監修の仕事をした形跡など一切無い。単なる男性フェミニストの筆者としては、「今まで『Λυσιστράτη』は男性の学者によってしか日本語訳されてきませんでしたが、これは酷い偏向だと思いませんか? 翻訳の質の向上も含め、ぜひ女性の学者による新訳が必要だと思うのですが」程度の提言はしてみたいのだが、藤村シシンの Twitter プロフィール欄には “古代ギリシャ語関係の監修や出演、賑やかしなどで現代を生きています” という弁明が書かれているので、なるほど冗談半分で “賑やかし” などと書いてしまえるような輩には古典の翻訳など重荷すぎるなと思うしかない。とはいえ、まさかフーコーも21世紀における「ギリシア」なるものの受容がここまで酷くなるとは思いもしなかったろう。金田や藤村に限った話ではないが、俗耳に歓迎されやすいネタにばかり飛びついて錯誤の種を増やす学者どもは、一体どのような言い訳をしながら毎日を生きているのだろうか?)、筆者がここで「ポケモンの世界」と表現し、菊地氏は「第二経済」と表現し、そして20世紀末時点での丹生谷氏が「無益の共和国」の「倫理的自由」と表現していた世界の様体は、もはや現今において性差別的ですらない。かねてより私が “最も不毛に去勢された「ユニセックス」の諸相” を見出してきたように、 “「肉体」を悦ばせるためにではなく「自己」を悦ばせるため” の精神性が現実の生活スタイルとして定着した21世紀前半の世界においては、男性の一方的な欲望のみが称揚されるのではなく、女性側が発したあらゆるフェティシズム(もちろん、その対象が異性であろうが同性であろうが無生物であろうが一切の問題は無い)も同様に流通し、さらには性差を超えた価値観の共有までもが可能なのだ(今さら「腐男子」や「歴女」などの呼称が何の意味を持つだろうか? すでにフェティシズムの「見えざる手」によって市場は整備され、「欲望」の流通を振興すべく性差は問題とされなくなった後なのだ)。 “「肉体」に隷属することなく、逆に「肉体」を自らの意思によって道具的に隷属させようとするのでもない、言わば相補的なネゴシエイトの関係” という丹生谷氏の記述は、(当時の著者本人の意思とは無関係に、思いがけず)ポケモン的=第二経済的世界の分析としてこの上なく正確である。現今において「推し活」や「二次創作」を「生存の美学」として持つようになった彼ら彼女らは、“「肉体」を悦ばせるためにではなく「自己」を悦ばせるため” に生きており、これは何か気の利いた言い回しのように膾炙している「推し活と恋愛は全く別のものだし、オタクは推しと結婚したくて莫大な時間と金銭を費やしているわけではない」という物言いと寸分違いなく一致する論理形式でさえあるのだから。
(のみならず、「私たちは未だ肉体に何ができるのかほとんど知らない」というスピノザの隻句をも引用した丹生谷氏のなんと明晰な見識! この引用句は文字通りに解釈すべきだ。現今の「推し活」的市場に情緒と金銭の両方を供出し続けているオタク的共同性の内部者は、どれほど異性または同性の姿に萌え狂っていたとしても、実際の対人的・肉体的「快楽」を享受することは必ずしも望んでおらず、むしろ最初からそれを放棄しているが故に「推し活」的市場への没入を確固たらしめている。彼ら彼女らは、文字通り「未だ肉体に何ができるのかほとんど知らない」し、おそらくは何も知らないまま生涯を終えるのだろう。)
さて、上述の内容を踏まえると、一体どういうことになるか。
フーコーは、単に古代ギリシアにおいて共有されていた歴史的形象にすぎない「生存の美学」に思い入れたが、のちにそれを「深い誤謬」と切り捨てた。
その「生存の美学」の様体を正確に要約した丹生谷氏の記述は、(再度強調するが、当該文を書いた時点での著者の意図とは全く関係なく)現今のポケモン的=第二経済的世界を支えている「欲望」の流通形式と完全に合致している。
ということは、フーコーがあくまで歴史的形象として見做した「生存の美学」は、数千年の時間的懸絶を飛び越し、突如として21世紀前半の世界に定着したことになる。これは古代ギリシア的なるものの「復古」ではなく、「生存の美学」的な価値観が「超歴史的」に「偏在」していたのでもない。あくまで単純に、古代ギリシア人と同程度には浅ましい21世紀前半人が、アプリゲームやアニメや映画といった視覚表現への耽溺(=幼児化。いちいち「部分対象」などのフロイト派概念を持ち出す必要があろうか? “オタク的な創作物の受容態度は、フロイト的な「部分対象」とカント的な「崇高」の癒着であり、藝術作品が本来的に備える政治性を削除するための具体的な手続きを担っている” などと言ってみたところで誰が面白がるだろうか?)によって馴致され、ついには「キャラクターの交換」を経済の基盤とすべく大衆的な合意を形成するに至った、その新たな歴史的形象が成立するまでの過程を記述したのみである。私はポケモン的=第二経済的世界を「歴史の終わり」にある実体として扱ってなどいないし、21世紀中盤以降の人類は(前述の)アプリゲームやアニメや映画といった視覚表現への耽溺(=幼児化)など克服して新たな展望を見出すはずだと信じてもいる。しかし丹生谷氏が同時期の別稿で批判的に指摘していた “「日本的なるもの」を「革命の終着地」としたアレクサンドル・コジェーヴの滑稽” は、今や “我々の自尊心をくすぐるよりも遥かに無残な失笑を呼ぶ” どころではない。むしろ佐々木中が『切りとれ、あの祈る手を』で展開した終末論批判で一掃され得たような「歴史の終わり」とは全く別の「日本的スノビズム」が現在にいたるまで生き延びてしまった、その事実を受け入れなくてはならない。「日本的なるもの=革命の終着地」を動力源として駆動する「無益の共和国」が、21世紀初頭から刻々と「推し活」や「二次創作」などの「国民的行事」を一般化させ、 “互いに互いを愉しみながら、互いに互いを、おそらくは無益な快楽と苦痛の中で死んでゆくアスレチックなエチカ” に則した主体を次々と生産し、もはや「アニメ好きの外国人」などの狭小な範疇を超えたレベルでの世界征服を果たしつつある事実を見据えることが無ければ、21世紀前半の我々はフーコーどころではない「深い誤謬」へと陥没せざるを得なくなるだろう。
〔後略〕
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↑
“実際にはギリシャ、ヘレニズム、ローマの文化において、自己への配慮がつねに、互いにはっきりと区別され、しばしばたがいに閉鎖的な、そしてたいていの場合自分以外のすべてに対して排他的な制度や集団における実践の内部で形成してきたということです。自己への配慮は、信徒団体や友愛団体、学校や教団の実践ないしは組織に結びついているのです。”
(ミシェル・フーコー)
“いくつかの蒙昧主義的なプロパガンダに対して警戒を呼びかけておかなければならない。それが今日、心理学と最近のその亜流のマーケティングや、崩壊する大学を生き長らえさせる水増し、それに不安の社会的な管理などの複合効果のもとで、戯画化された科学を垂れ流し、大衆を教育するとか治療するとか祝聖するとか、あるいは生涯教育プログラムの用語で言う「創造力の開花」とかの口実のもと、大衆を大々的に愚行へと導いているのだ。”
(ピエール・ルジャンドル)
↑あとは、フーコーと比べれば遥かに出来は悪いが当時のフランス人としてはそれなりにニーチェを読めていたと言わざるを得ないバタイユの著作が、現今の「無益の共和国」の体制に馴致されたオタクによってこれ見よがしな妄言として利用されている実例でも挙げておこう。ある意味で、この駄文はオタクによる「推し=バタイユ」の、精一杯気を利かせたつもりの二次創作であると言えなくもない。もっとも、これはバタイユの著作自体が悪い。本当にニーチェを読めていたならばあらかじめ避けられたはずの陥穽にばかり飛び込むバタイユの姿を瞥見しつつ、そのニーチェ主義者としての無様な先輩を反面教師としていくつもの瞠目すべき知見を披露してくれたのが他ならぬミシェル・フーコーなのだから。
そしていつもながら、バタイユの言う「体験」や「恍惚」にばかり振り回されて肝心の「詩」の理路は完全に見落としているこのオタクの嬌態は、あまりにも「非一神教化された神秘家=バタイユ」の上客の姿として典型的すぎて、もはや懐かしさすら覚える(再度強調するがこれはそもそもバタイユの著作が悪い)。『無神学大全』を準備していた頃のバタイユが最も読み込んでいた詩人が十字架のヨハネであった事実など、このオタクにとってはどうでもよいらしい(ところで、 "国民国家という体制=リヴァイアサンを盲信し、しかし肝心の聖典はろくすっぽ読まず、それでも「目に視える神=推し」の姿に惑乱しながら現世で罪とされる労働を職業意識で糊塗し続け、自身の生活スタイルが根本的に宗教そのものでしかない事実からは執拗に目を背けている" という一般的な日本人の生態は、言い訳の余地なしにプロテスタント的である。日本人=プロテスタントの究極的に世俗化した形象であるオタクがスペイン神秘家の理路を読み損ねたからといって、一体誰が責められよう)。そういう意味で、「バタイユの敵をフーコーが討つ」が如き『夜戦と永遠』が、鶴岡賀雄氏(言うまでもなく、スペイン神秘家を専門とする世界的な研究者である)の一番弟子であった頃の佐々木中によって書かれなくてはならなかった事実も、当然の帰趨として理解される。