量子力学と恋愛
まず言っておくと、私は理系の男は好きだし、思考は理系的ではあるけど、私自身は全く理系ではない。それも文系的な思考をしないというだけで、「消極的な理系思考」という程度だ。
ただ量子力学って、もはや物理学というより、哲学の世界。とんでもなく頭のいい人たちが一所懸命考えても、「うーん、でもまだわかんないんだよねー」って言ってる。あのkもわからないって。もうその姿を想像するだけで、私なんかは濡れてしまうのだけれど、とにかく、まだ誰もわからない世界。そして、どんなことをいっても、「そうかもしれないなー」って許してくれそう。実際、kに「量子のテレポーテーション」の私的解釈を話しても、「それは違う」とは言われず、「そうかもね」って言っていた。だいたい、「地球は丸くない」とか、「熱は熱いところから冷たいところに移動しない」、とか現代科学で明らかになってることに反旗を翻そうってわけじゃないしね。なので、まだ解明されていない「今」は、自由にこう思うって言っても、ボコられないんじゃないかと。ここ数日ぶつぶつと考えてしまってるので、ちょっと整理するために書いておく。
量子力学で有名な「二重スリット実験」。私の理解があっていれば、地球のありとあらゆるものは、ちっちゃい玉みたいな原子、電子、中性子で構成されている。で、この玉みたいなのは、ボードにふたつの隙間(スリット)を開けたものに、電子とか光子とかを飛ばしてみたら、ボードの後ろのスクリーンに映し出された結果から、粒と波の性質の両方を持っている、ということがわかったんだって。粒の縞模様みたいな絵がスクリーンに現れたから。
この先が面白いのだけど、「電子ってどこのスリットを抜けてるんだろうねー」って電子の動きを観測機でみてみたら、なんと、観測を始めた瞬間、波っぽい動きをやめて、粒っぽい動きに変わっちゃったんだって。これは観測機が光を出すから、その作用で電子の動きが変わったという話らしいけど、その後、観測機ではなく、観測者が光子の動きを観測し、「こっちのスリットを通れー!」って念じた方に光子が動く、なんてめちゃめちゃ不思議なことが起こったらしい。
観測者が念じたところに、あるんだって
それでね、量子力学の祖とされている、ボーアの「コペンハーゲン解釈」というのが今でも主流らしいのだけど、この考えだと、電子とかは可能性の波に乗っていて、観察しよう!とした瞬間に、他の可能性は消えて、「号外!電子の場所が確定!!」ってするんだって。それまでどこにいたかってのは、消えてなくなるの。少なくとも観察者にとっては。
「だるまさんが転んだ!!」って振り返ったら、ここにいた!って感じ
なんて面白いんだろう。
そしてこの考え方を進化した考え方が、シミレーション仮説というものらしい。ゲームで空間を描写する時には、見えている世界以外は演算の負荷になるから計算しなくて、ユーザーが観測した瞬間に世界が見えるようにする。それとすごく似てるよねーってことらしい。だからやっぱり、観察者がみた「瞬間」にしか、電子は存在しないってことと理解した。見えてない世界は存在しない。
で、この世のありとあらゆるものは原子みたいな玉で構成されている。我々の脳もしかり。脳は神経細胞(ニューロン)のネットワークで、色んな感情を処理している。だから、恋愛でもなんでもそこで生まれる感情が、そもそもの原子の動きをしている、と考えてもおかしくないんじゃないかと。つまり、脳が生み出す感情も、電子とか原子とか中性子と同じ特性を持ってるんじゃないかなと。「だるまさんが転んだ!」って振り返った瞬間に、その感情というのが「観察者には」見えて、観察者が「こっちだ!」と思った通りに、動くような感じかと。
意外とこの感覚わかる気がする。「心ここに在らず」という表現が存在するように、その場所に意識をもったその人がここにいるのに、どこか気持ちや感情が違う場所にいっちゃってるなーって時がある。それは、それを観察したその人がみた瞬間に、どこか遠くの場所に確定されて、気が付く前までは、その人の体の中にあったんじゃないかな。高い確率で。でもそれも「観察者次第」でだから、確実に「どこか遠くにいってる」とは言えないわけだ。ねっ、ほら、感情も同じ動きしてる気がしない?
ここでようやく本題。
感情の浮き沈みが割と激しくなりがちな恋愛。恋愛における感情も、観察者が観察した瞬間に「観察者にとっては確定ー!」という動きになるとする。本当かどうかなんて、誰もわからない。ただ観察者がそう思ったら、あらゆる可能性はそこに集約されて、確定!ってなる。何回も言ってしまうけど、これは結局「観察者次第」ということになる。「真実なんて1つな訳ない」というのはこういうこと。相手の言動を観察して、観察者が「こうだ!」と決めているに過ぎない。恋愛における相手が、何かを確定しているわけではなく、どこまでいっても観察者である自分が確定したこと。相手の言動を観察して、自分が確定しただけ。
恋愛に限らず、会社や子供や親兄弟、自分以外の全ての人に対して同じ。結局、自分が観察した結果でしかない。
私はマトリックスの世界観が昔から好きで、だからこういう発想になるんだろうけど、私の中でこれがこの世の結構な真理な気がする。だからといって、なんでもかんでも、「すべては私が決めている」と達観することはしたくない。面白くないから。だから私は人生のライフハックとして、自分が楽しい、嬉しい、興奮するような私という観察者の意見は、何も考えずに教授したい。「誰かがこういった、こうした」という嬉しい行為は、何も考えず、「嬉しい」と受け取る。逆に、テンションが下がるような他者の行動は、意識的に自分の観察結果にすぎない、そんな自分の結果だけに悲しんだりして、ばっかじゃねー、ぐらいに思う。そうやって自分の「心の体幹」を無意識に保ってるんじゃないかなー、っていう気付きでした。
意味不明すぎるなー、ははは。でもすっきりした💕
では。