【思考実験】全員が白Tを着た世界では、誰が“オシャレ”と呼ばれるのか?[ファッションリベラルアーツvol.04]
あなたはこの問いにどう答えますか。
世界中のありとあらゆる人が全く同じ格好をしているという中で誰が“オシャレ”とされるのか、です。
具体的な個人で考えていただいても、属性で考えていただいても構いません。
ほとんどの人の回答は、概ね予想できます。
「イケメン俳優・アイドル」「端正な顔立ちの八頭身モデル」
「ファッションの文脈で現在注目されるアーティスト」等…を思い浮かべた方が多いのではないでしょうか。
例えば、それは目黒蓮さんかもしれないし、冨永愛さんかもしれないし、常田大希さんかもしれない。
あるいは、パリコレでランウェイを歩いているような海外のファッションモデルをイメージした方もいるかもしれません。
換言すれば、全員が同じ服装をした世界においては「容姿端麗な人から順に“オシャレ”だと評価される」と考える人がほとんどだということです。
しかし本当に、全人類が同一の白Tを着た世界では、容姿が優れている人=“オシャレ”と呼ばれるのでしょうか。
わたしは少し違う見解があります。
全員が同じ白Tを着た世界では「◯◯をもつ人」が“オシャレ”とされるのではないかと考えています。
今回は、この思考実験を通して“オシャレ”の本質に迫って行きたいと思います。
Ⅰ. “オシャレ”は相対評価の中で生まれる
まず第一に考えたいことは「人がどのような時に“オシャレ”と感じるのか」です。では、次に示すイラストを見てください。
このイラストの世界では、9人が同じ「白い服装」をしており、残り1人が「赤い服装」をしています。
このとき、この世界の“オシャレ”は間違いなく「赤い服装」を中心に規定されるでしょう。理由は他でもなく、少数派だからです。
白い9人は次々と赤い服を身につけるようになり、いずれ「赤い服装」が多数派へと入れ替わります。
入れ替わりの過渡期に差し掛かった時、もともと「赤い服装」をしていた人は周囲を見渡し、もうすぐ少数派へと変わる「白い服装」が“オシャレ”なのではないかと考えだし、「白い服装」に転身します。
順調に全体が「赤い服装」に移行した頃には、初期状態とは全く真逆の環境が出来上がっているのです。
しばらくすると、同じ流れで「白9:赤1」の初期状態に戻るでしょう。
極めて“オシャレ”を単純化した図式ですが、注目したいことは「赤い服装」自体が“オシャレ”だからという理由で真似されているわけではなく、あくまで「少数派」であることに価値が置かれている点です。
「オシャレ→少数派」ではなく「少数派→オシャレ」という関係性が成り立っています。
つまり、“オシャレ”は相対評価の中で発生するものだということです。
この前提のもと、『全員が白Tを着た世界では、誰が“オシャレ”と呼ばれるのか?』という思考実験を考えると、その相対性が全く失われていることがわかります。
全員が同じ白Tなのですから、少なくとも服装においては相対的な違いがありません。
だからこそ、容姿端麗な人から順に“オシャレ”と評価されるのではないかという見解が出てくるのは至極当然です。
「身につけている服」に違いがないのなら「身につけている人」によって“オシャレ”が規定されるようになるという発想です。
しかし、ここで慎重に考えたいことは、容姿端麗=オシャレではないということです。
「イケメン俳優・アイドル」は容姿がかっこいいのであってそれだけでオシャレなわけではありません。
「端正な顔立ちの八頭身モデル」はスタイルがいいのであって、それだけでオシャレなわけではありません。
「ファッションの文脈で現在注目されるアーティスト」であっても、全員同じ白Tを着てしまえば、ただのアーティストに過ぎません。
服は人が身につけるものですから、身につけている人の印象が服装に影響することは大いにあります。
しかし、それはオシャレを規定する本質部分ではないということです。
服装も同じ上に、身につけている人でもオシャレが決まらないとすると、残されているのは…「目に見えない部分」です。
Ⅱ. 全員白Tの世界では、哲学がオシャレを決める
これ以上は間延びするだけですので、結論を。
全員が同じ白Tシャツを着たとき、その白Tを着ていることに対して「哲学的な意味をもつ人」が最もオシャレとされるのではないかと考えます。
突拍子のないことのように思えますが、よくよく考えればファッションの「ブランド」とはそういうものではないでしょうか。
上記写真はルイヴィトンが展開する「ピケコットンTシャツ」。
正真正銘ただの白Tシャツですが、価格は¥162,800。
どれだけ高級な素材を使っていたとしても、どれだけ工賃をかけていたとしても、一枚のTシャツを作るのに¥162,800はかかりません。
ここでわたしは値段が不当に高い!という主張をしたいわけではなく、これだけの価格の背景にこそ「目には見えない“哲学”」が隠れていると言いたいのです。
ルイヴィトンが連綿と積み重ねてきた歴史やブランドの雰囲気等、形而上(形のないもの)にこそ¥162,800という価格の裏付けがあります。
そうです。
「全員が白Tを着た世界」でもまさに形而下(形のあるもの)では違いが生じないからこそ、形而上(形のないもの)に価値が生まれるはずです。
「なぜ、わたしは白Tシャツを着ているのか?」という問いに対する答えや「自分が着ている白Tシャツには…」という固有の意味を持って身につけている人こそが真に“オシャレ”と呼ばれるようになると考えます。
Ⅲ. ファッションリベラルアーツを学ぶ意義
当ブログで取り扱っている“ファッションリベラルアーツ”もまた、ファッションに関する哲学や歴史、社会学などの教養を学ぶことで感性を研ぎ澄ますためのものです。
写真で簡単に世界中とコミュニケーションがとれるようになった今、その平面の奥行きを捉えることにこそ深みがあります。
当ブログのコンテンツを通じて、ファッションの奥行きを捉える哲学の面白さが多くの人に伝わればと思います。
さいごに…
今回取り扱った『全員が白Tを着た世界では、誰が“オシャレ”と呼ばれるのか?』はあくまで思考実験ですから単一の答えに帰結する必要はありません。みなさんが直感的に考えられたことがそれぞれの正解です。
こうして「“オシャレ”ってなんだろう」と主体的に考える行為自体が、感性を磨きます。
ぜひ、お近くの人の意見も聞いてみてください。
その意見との差異にこそ、あなたの感性が眠っています
#ファッション #コーディネート #洋服 #服装 #おしゃれ
#哲学 #リベラルアーツ #ファッションリベラルアーツ #思考実験
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?