ファッションで比較するの、やめにしませんか?[ファッションリベラルアーツ vol.23]
某Xのタイムラインを横目で見ていると、ファッションに関する情報をポストしているアカウント同士で言い合いをしていたり、他人の着こなしをリポストして小馬鹿にしていたり…。何かと不快感を抱くことが少なくありません。
YouTubeには【NGコーデ‼︎】【〇〇万円分購入品】のような「だからなんなのさ、、、」と言いたくなる文言がぎっしり。ついでにコメント欄にもファッションの権威がたくさんいて、辛辣な御意見をくださいます。
いつの間にかファッションが他者と競い合う“競争原理”のうちに晒され、「このブランドはこういう合わせで着るのが正解」「こういう体型の人はこれを着るべきではない」みたいな論調が正当化されている気がします。
この根本原因はどう考えてもSNSであり、「ファッションといいね」が有機的に結びついてしまったことにあります。
実のところ現在のようなSNSがない1980-90年代は、ファッションに熱心な人々の多くがクラブや繁華街に足を運びました。文字通り“ストリート”でファッションの刺激を受け、新しいインスピレーションを得ていたのです。
「クラブで見かけたあの人のTシャツがカッコよかった」となれば、こっそりそれに似たTシャツを古着屋で探しては、我が物顔でクラブに着ていく。
渋谷のセンター街のギャル達は、マルキューのアイテムでは差別化ができないという理由から、「Popteen」や「egg」などのギャル雑誌でみたイケてるアイテムに似せて自分だけの服を自作する。
現在と大きく違うのは、服を着る動機が自分に向いていることです。
ファッションが“外側に向けられる”という性質上、他者の評価から完全に切り離されることはないものの、少なくとも今よりもっと純粋にファッションという行為が行われていたように思います。
数字では測れないからこそファッションの意味がある
インターネットの影響により、ファッションと数字が結びつけられたことで本質的ではない見方が世間を覆うようになりました。
本来、定量的ではないはずのファッションがSNSのビュー数やクリック数によって評価を受け、しまいにはインフルエンサーが【〇〇万円分購入品】と数字で視聴者を焚き付ける事態。
より価格の高い服を着ていること=おしゃれなわけがないし、よりアクセスを集めたスタイリング=おしゃれでもありません。
むしろ、数字では測れないからこそ“ファッション”なのではないでしょうか。簡単に理解を得られて、数字に変えられるようでは、文化としての厚みが全くありません。
“ソーシャルファッション”をやめよう。
街で見かけるファッションはもはやストリートファッションというよりも、あらゆるフィルターを通して出来上がった“ソーシャルファッション”のように思えます。
(⬇︎こういう本を見ると、現在がいかにフィルターの通ったスタイリングに溢れているかに気がつくでしょう)
「このブランドはこういう合わせで着るのが正解」「こういう体型の人はこれを着るべきではない」と他人のファッションを罵り、SNS上で優位になろうとする。【NGコーデ‼︎】【〇〇万円分購入品】のようなわかりやすいラベリングで、視聴者を煽る。
コメント欄では、聞いたわけでもないのに「こうしたほうがいい」とスタイリングに関する指摘をくださる知恵袋状態。
「そろそろ、ファッションで比較や否定に走るのをやめにしませんか?」
昼夜問わずハウスミュージックに合わせて踊り狂ったクラバーや日焼けサロンにこぞって集まったコギャル達のように、誰かとの比較のためではない純粋に自分のためのファッションは人生をより豊かにしてくれるはずです。
ただ、わたしは昨今のファッションそのものを否定したいわけではありません。着ている物に対する否定ではなく、あくまで着ている者の姿勢に対する問題提起です。この記事で取り扱った曖昧な感覚に少しでも共感してくださる方♡がいたら、嬉しい限りです。
<“自分のためのファッション”を探るための推薦記事>
かなりの余談ですが、当ブログもスキ♡の数が少ない記事(数字と結びついていない記事)ほど、より本質的で探究的な内容だったりします(これやこれetc…)。本質は数字では測れないものですね。
ぜひ、お時間ある際にそちらの記事にも足を運んでみてください🦉。
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