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旅好きの少年が、大人になって続けた人生の旅。


株式会社焼肉坂井ホールディングス 代表取締役社長 髙橋仁志氏

大学卒業後三重銀行(現三十三銀行)に就職。3年後、フランチャイズの宅配ピザ事業をスタート(アオキーズ・ピザ松阪店創業(FC))。37歳で事業を売却し、ジー・コミュニケーションに常務取締役、M&A統括本部長として入社。ベーカリーチェーン「モンタボー」をはじめ、買収企業を再生させていく。40歳で、2度目の起業、2018年には高級食パンを全国展開する「銀座仁志川」を設立。2023年、55歳の時、焼肉坂井ホールディングス(ジー・テイストから社名変更)に代表として就任し、現在に至る。


父と母と割烹料理店と。

「父母の背中をみて、将来はサラリーマンがいいと思っていた」と、今回ご登場いただい焼肉坂井ホールディングスの髙橋社長。ご両親は、三重県松阪市で割烹料理店を経営されていた。

「とにかく繁盛店だったものですから、そのぶん、忙しい。朝早くから夜遅くまで働く姿を見ていましたから、たいへんだな、と(笑)。私と、弟がいるんですが、私たち二人は、祖父母に躾けられ、育ったようなもんです」。

朝、真っ白だった割烹着が、帰宅される時には真黒になっていた。それが印象に残っていると、髙橋社長は言う。

「父は中学を卒業し、三重から包丁一本を持って大阪へ行き修業をしました。母と出会ったのは、その時で、結婚した後、三重に戻り割烹料理店をオープンしました」。

おじいちゃん、おばあちゃん子だった、と髙橋社長。しかし、父母といっしょに、グルメは堪能した。

「父にすれば、研究だったんでしょうね。でも、いろいろなお店に連れて行ってもらいました。もちろん、他の友達のように土日親子で行楽に行くってシーンはなかったですね。その他にも時々、店に行って、冷蔵庫からコーラやサイダーを取りだして飲む、それも楽しみの一つでした」。

さみしくなったら店に行く。仕込み中なら、お客様もいない。コーラを飲み、父母の姿を追いかける少年の情景が浮かぶ。

「父は料理人で、口数は少ないですね。寡黙な職人そのものです。代わりに、大阪出身の母は天真爛漫で、明るい性格。私は、顔は父にそっくりなんですが、性格は、母似。母譲りのコミュニケーションスキルは、私の人生でも武器の一つになっています」。

人生の旅が始まる。

高校は、三重高校。秀才が通う三重高校のなかでも、特別進学クラスに進学する。ただ、高校に進学してから勉強は二の次になったそう。

「旅行が好きで、寝台特急で東京に行ったり、と。もちろん1人で、です。食べるのも大好きでした」。

たぶん、好奇心も旺盛だったのだろう。そう言えば、小さな頃、「母に連れられ、母の実家がある大阪でマクドナルドのハンバーガーを食べたことがある」と話されていた。「美味しすぎて、フライドポテトの塩まで味わってましたね」と、笑いながら。

旅の先には、まだ、知らない美味しいものがある。そう思って、列車に乗り込んでいたのかもしれない。
三重高校を卒業した髙橋社長は、松阪大学(現、三重中京大学)に進学する。

「好きな『旅行』の行動範囲は更に広がりました。でも、大学でも勉強はそれほどしてなかったです(笑)」。

就職先は、三重銀行(現三十三銀行)。

「就職が決まってからですが、アメリカ、ロスアンゼルスに3ヵ月、留学します。ここで、私の人生のターニングポイントになるような出会いがありました」。

<三重銀行に就職される前のことですね?>

「そうです。まだ学生ですね。社会人になるまでの、大好きだった『旅行』の集大成といいますか、ロスアンゼルスへ行って、ホームステイをさせていただきました」。

アメリカは、どれだけ広いのだろう。どんな美味しい料理があるんだろう。好奇心で、心は高鳴るばかり。しかし、話を聞くと、髙橋社長の心をもっとも、ときめかせたのは1人の日本人だった。

日本の大手ハンバーガーチェーンの創業者と、ビバリーヒルズで。

「お会いしたのは、日本生まれの、あの大手ハンバーガーチェーンの創業者です。あるカフェで知り合って、ビバリーヒルズにある豪邸に招いていただきました」。

その時の、髙橋社長の頭の中を表現すると、「!!!!!!!!!!!」となるに違いない。「プールでしょ。温泉でしょ。それに、お隣さんはだれもが知っている超有名な映画俳優さん」。

<もしかして1対1で、ですか?>

「そうなんです。ありがたいですね。創業のきっかけとなったお話も伺いました。当時、父の仕事もすごいと思っていましたが、同じ飲食でも、こういう世界を手にすることもできるんだというのが、正直な思いでした」。

あの大手ハンバーガーチェーンの創業者と、1対1で会話できるなんて日本にいてもそうはできない。しかも、偶然、レストランで出会っただけ。「もう、本当にラッキーだったと思っていました」。

21歳のジャパニーズ。

「当時は、日本経済が絶好調。ロックフェラーセンターを買うなんてことが話題になった頃です。もっとも、その方に影響は受けましたが、やはりサラリーマンがいい。私の頭はまだ、少年の頃と変わりませんでした」。

人生の旅の始まりは、銀行員から。

予定通り三重銀行に就職した髙橋社長は、ビバリーヒルズの豪邸をイメージしつつ、上昇志向のかたまりとなって次々と、輝かしい実績を打ち立てる。

「ちょうどね。プロ野球の野茂さんが、MLBに移り、ドクターKと言われていた頃です。新人だった私に先輩が、“三重銀行の野茂”ってニックネームがつけられます。銀行の中では、トッププレイヤーで、トップスターでした」。と髙橋社長。

「しかしね。私はしょせん、地方大学出身です。そりゃ、地銀といっても一流大学出身の同期もいますからね。上司が目をかけるのは、結局、彼らなんです。私がいくらいい成績を残しても、学歴社会の中では、二流のままだったんです」。

頭ではわかっていたが、衝撃を受けた。これが、リアルな社会の構造だった。

「今だから言えますが、労働時間は長かったですね。当時、アルバイトの時給が500円程度だったと思いますが、私の給料を時給換算すると、250円くらいだったんじゃないかな。まぁ、そういう時代だったんですが」。

髙橋社長は「頑張れば一番になれる」と思っていたそうだ。それだけ、ピュアな青年だった。入行して3年、ピュアな青年は、銀行を後にする。

宅配ピザ創業。

一握りの野望と、母親譲りのコミュニケーションスキル。武器は、まだこの二つ。いや、正しく言うと、もう一つネットワークがあった。

「実は、銀行員時代、アオキーズ・ピザと新規で取引をさせていただいたんです。それがご縁で24歳の時に、アオキーズ・ピザのフランチャイズをスタートさせていただきます」。

父親から900万円ほどを借り、宅配のバイクや厨房の機器は出世払いと言って、後払いで譲ってもらったそう。「宅配需要が増えていったタイミングですね。素人でしたが勝算はもちろんありました」。

宅配ピザの状況をウオッチしていた結果だという。

「実際、儲かりました。投資資金はすぐに回収できました。ただ、そこがゴールじゃなかった」。

<ゴールはビバリーヒルズ?>

「そこまではいかなくてもね」。

掲げた目標を次々クリアする。
宅配ピザを16店舗、コメダ珈琲を7店舗出店している。

24歳で宅配ピザを始め、30歳でコメダ珈琲をオープン。37歳になるまで、苦労もしたことがない、という。「もちろん、最初は自ら色々やりました。ワンオペです。ポスティングもしましたし、デリバリーもしました。そういうのを苦労と言えば、苦労をしたことになりますが、そういうのはお客様の笑顔をみたら忘れてしまう苦労です」。

どうすれば、人が喜んでくれるか。これは、髙橋社長が起業した時から外食ビジネスにおいて、追いかけてきた重要なテーマである。

新たな旅の始まり。

こののち、髙橋社長は創業した会社と、二つの事業を売却している。赤字になったからではなく、ジー・コミュニケーションの創業者との出会いが、髙橋社長の心をわしづかみにした。

「事業は上手くいっていましたが、どこかでこれでいいのかな、と思っていたのも事実なんです」。苦労がない、というのが不満だったそう。

「そういう背景もあって、事業を売却し、ジー・コミュニケーション(ジー・テイストは、2005年にジー・コミュニケーションにより子会社化されている)に入社します。ジー・コミュニケーションの創業者に惹かれたのも事実です。彼は、私より2歳下でしたが、日本を代表する経営者の一人だったと思います。たまたま、海外の視察でお会いして、意気投合したところからのスタートです」。

ただ、この出会いと決断で、髙橋社長は初の挫折を経験することになる。

「入社して3ヵ月した時に、子会社の社長を命じられるんです。私にすると、本体から外された思いがあって、これが一つの挫折になるんです。私の評価はそれくらいだったのか、と」。

ただ、この時から、髙橋社長は、事業再生のスターになっていく。最初に手がけたのが、社長に就任した子会社の「モンタボー」だ。

「モンタボーは大手企業がバックにあったものですから、利益は関係なかったんですね。だから23年、連続赤字でも問題にはならなかったわけです。問題は商品の価格でした。だから、もう一度、価格を含めてリブランディングすることにしました」。

原価、人件費、いわゆるF/Lコストの見直しも行った。結果はすぐに現れる。その成果によって、事業再生の切り札的な存在にもなられたのではないだろうか。

ちなみに、この時、髙橋社長は「モンタボー」という店名に、「麻布十番」と、ショルダーネームをつけられた。「私ら地方出身にしたら、『麻布十番』にあるだけでインパクトがあったのです。だからね。モンタボーだけより、いいでしょ」。

地方出身のピュアな発想は、再生のカギの一つになった。

40歳から、もう一つの旅にでる。

じつは、髙橋社長の旅は、まだ終わらない。M&Aや事業再生で頭角を現したが、そのステージに安住しない。まさに、人生の旅人だ。

「40歳になってもう一度、ベーカリーチェーンを起業しました。2018年には、『銀座に志かわ』を創業しました。そして、昨年(2023年)、焼肉坂井ホールディングスの代表に就任しました」。

焼肉坂井ホールディングスは、元ジー・テイストだ。髙橋社長は、1968年生まれだから、この時、55歳である。

「これは、私にとって、やり残したことに改めてチャレンジする、言い換えればリベンジといったらいいんでしょうか? これだけのスケールの会社ですから、人生の集大成と言いましょうか、私なりのゴールに向けて新たに歩み始めることができると思い、社長就任のオファーを受けさせていただきました」。

社名に「焼肉」とつくが、ブランドは、もちろん多岐に広がっている。現在、グループ全体で250億円という巨大企業。東証スタンダードに上場している。

「私がやるべきことの一つとして、やはりリブランディングが挙げられます。じつは、当社には半世紀を超えるブランドがいくつもあるんです。『壁の穴』『平禄寿司』『村さ来』『敦煌』などもそうですね。これらのブランドをもう一度、再定義して、ブランディングをしていきます」。

海外へ、というのも、一つのキーワードになるそうだ。外国人の採用も進めていく。グローバルな視野をもつ髙橋社長に、国境という「壁」はない。

さて、髙橋社長にとって、今がゴールではない。いつの日か、新たな旅のキップを握っているかもしれない。ひょっとすれば、そのキップは、日本ではなく、海外行きのキップかもしれないと思った。

24/07/05
株式会社焼肉坂井ホールディングス 代表取締役社長 髙橋仁志氏

飲食の戦士たちより

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