今日も、しゃぶ禅では、歓声が上がっている。~しゃぶ禅株式会社 代表取締役社長 菅野雄介氏
しゃぶ禅株式会社 代表取締役社長 菅野雄介氏
大学中退後、父親であり、あのマハラジャの創業者である菅野諒氏が経営する企業に入社。不動産事業を経験したのち、独立。独立して、当時の主力事業だった「しゃぶ禅」のフランチャイズ店をオープンする。
マハラジャと、菅野家と、しゃぶ禅。
日本の男女が熱狂した。ディスコテック。マハラジャはドレスコードや黒服という言葉を、少年少女に教えてくれた。
源流をたどると、「檻の中」や「深海魚」「最後の20セント」「メビウス」」と言う名が上がる。こちらの話は、現会長にインタビューさせていただいたコチラをご覧いただくのがいいだろう。
さて、今回、ご登場いただいたのは、現会長の菅野晃さんの甥にあたる菅野雄介さん。現会長の兄であり、創業者、菅野諒さんの次男である。
「父ですか、父は、すごく厳しい人でしたね。『おはようございます』。子どもたちは、私も含めてですが、礼儀正しく挨拶しないといけません」。
何かあるとゲンコツがとんできたそうだ。
浮き沈みも経験されている。
「当時はバブル経済です。マハラジャはディスコブームをつくり、バブルの象徴のように言われていました」。
たしかにそうだった。毎夜、マハラジャのレジは入りきれない札束で溢れたという。
「全盛期だったんでしょう。その時は、うちの車もロールスロイスでした。ただ、あれ?と思ったら、ボロボロの車に代わっていました(笑)」。
栄枯盛衰がピッタリな表現かも知れないが、案外そうでもない。マハラジャがつくりだした宴は、もう一つの宴にひきつがれていく。
それが、今回の舞台となる「しゃぶ禅」。
2023年12月で創業から40年になる名店だ。
「マハラジャを運営する一方で、1983年に、六本木に『しゃぶ禅』をオープンします。『高級な和牛のしゃぶしゃぶをお腹いっぱい食べることが出来たら、お客様が喜んでくれるのではないか』と、スタートしたブランドです」。
どうすれば、お客様が喜んでくださるか。創業者の諒さんは、このテーマを追いかけつづけた。
「この頃は、ロールスロイスの時代だったんでしょうね。やがて、バブルがはじけ、マハラジャが幕を閉じます。そのあとに残ったのが『しゃぶ禅』でした」。
今や、外国人も日本旅行の楽しみの一つに挙げるジャパニーズレストランの一つ。
さて、つい長くなったが、いつも通り、今回の主人公、菅野さんを子ども時代から追いかけてみよう。
「マハラジャ」の終わりと「しゃぶ禅」の始まりと。
「私は1974年、目黒に生まれます。大田区や世田谷など転々とした記憶もありますね。小学校は池袋にある立教小学校 。中学校も立教です。うちは、父も兄も立教です。ただ、私は高校進学時にエスカレーターからこぼれ落ちます(笑)」。
「案外、厳しくて、中学から高校に進めるのは全校生徒の1/3。私は2/3に入り、東海大学の附属高校に進学し、ここでも下から2割のなかに入り、進んだのは別の大学で、帝京大学です」。
もっとも卒業はしていないらしい。
「父が『お前じゃ、どこにいっても無理だろうから、うちに入れ』と。そう言われたので、留年することなく、友達といっしょに、大学を離れました」。
「子どもの頃は、通知表が悪いと殴られた」と、菅野さんは目を細める。
「中・高にもなると、だいたいの子が遊びに行くようになるでしょ」。
ディスコは、当時の中・高生にとって憧れのステージ。父親の仕事を知っている少年たちが、マハラジャを話題に挙げることも少なくなかった。
「ただ、私自身は興味がないというか」と菅野さん。
熱狂する人たちを、どこかさめた目でみていたのかも知れない。
大学生の頃から「しゃぶ禅」で皿洗いなどのアルバイトをしていたそう。大学を離れ、就職したのは、グループ企業の不動産部門。
「もっとも大変だった部門の一つですね。ただ、残った『しゃぶ禅』もしんどかった。人件費がないので、私は18時まで不動産部門ではたらき、18時から23時まで『しゃぶ禅』で仕事をしました。仕事といっても、サポート程度ですが、もちろん、無給です」。
マハラジャの宴をつぐはずの「しゃぶ禅」はどうなっていくんだろうか?
独立。しゃぶ禅のフランチャイズ店をスタートする。
「じつは、私、25歳で独立しているんです」と菅野さん。独立?と驚くと、「独立と言っても、そうしないと融資を受けられなかったから」と種明かしをしてくださった。
「今の四谷店ですが、もともとは『叙々苑』さんが、そこでしゃぶしゃぶのお店をされていたんです。ただ、うまくいかず、私どもに話をもってこられました。チャレンジしたいお話でしたが、なにせ、お金がない(笑)」。
「しゃぶ禅」では銀行融資もままならなかったそう。
「それで、私が会社をつくり、そちらに融資してもらおうと。そういうスキームにして、無事、1500万円の融資をうけて、『叙々苑』さんのあとで『しゃぶ禅』のフランチャイズ店をスタートしたんです」。
菅野さんの意思ではない。「だって店長の経験もなかったんですよ」と笑う。父親から「やれ」と言われ、やるしかなかったというのが、本音。
むろん、状況が、状況だ。失敗は許されない。だからこそ、父の諒さんは、だれでもなく、息子の菅野さんに託されたにちがいない。だとしたら、その賭けは、まちがっていなかった。
しゃぶしゃぶ食べ放題は、四谷でも人気になる。「ロケーションが悪くなかったから」と謙そんするが、むろん、菅野さんの仕事も評価されるべきだろう。とにかく、店舗は連日連夜、賑わい、月商は1000万円をオーバーする。
「『しゃぶ禅』は6Fだったんです。おなじビルの地下も空いたので、今度は、そちらで焼き肉食べ放題『牛禅』をスタートします。こちらも、好調です。少しずつ、私にも自信がついてきます」。
ただ、このあと、貯金通帳の残高が62円となってしまう。
通帳の残高62円。
「調子に乗ってやってみようってことになった」と菅野さん。
「京都のマハラジャがあったところで、焼鳥ブランドをスタートするんですが、こちらが大ゴケ」と苦笑する。
「2年で撤退しますが、1億円くらいの借金が残りました」。またまた、借金生活。追い打ちをかけるように、BSEが、起こる。せっかく好調だった「しゃぶ禅」「牛禅」を直撃。
「あの頃、月末になると、所持金は1円玉、3枚、通帳の残高をみたら、たったの62円なんて時がありました」。
それでも、前を向きつづけた。
父であり、カリスマ創業者だった諒さんが他界。諒さんのあとを受け、現会長の晃さんが、社長に就任する。晃さんは、菅野さんからすれば叔父となる。
「その頃からですね。いずれ私が『しゃぶ禅』を継ぐことになると、そういうことを意識しはじめたのは」。
むろん、所持金3円からの大逆転も果たす。神楽坂にオープンした「しゃぶ禅」も大ヒット。2016年には、晃さんが会長に、菅野さんが社長に、という人事が発表される。
その時点で、「しゃぶ禅」には、すでに30年以上の歴史があった。負債も少なくなったが、この歴史は大きい。今までいちばんたいへんだったのは?と聞くと、コロナという回答。
業態が、業態だけに、たしかに厳しい。ただ、この時、菅野さんを励ましてくれたのは「しゃぶ禅」の長年のファンたち。「歴史」という財産が、明らかになった瞬間だ。
「社長に就任して、それまでの体制を改めて、いよいよって時にコロナだったんで、そりゃ、落ち込みます。でも、なんとか従業員の給料も下げることなく維持できたのは、従業員はもちろんですが、そういうファンの皆さんのおかげですね」。
もちろん、2024年になり、客足は完全に戻っている。
「しゃぶ禅○○店」までが、一つのブランドである。
改めて、菅野さんは前を向く。「根強いファンもいらっしゃる『しゃぶ禅』ですが、私は、まだまだメジャーじゃないと思っています。逆にいうと、そのぶん可能性があると思っているんです」。
現在、大阪を含め、直営・FCフランチャイズ11店舗。今後は首都圏中心に、40~50坪程度の小型店を出店し、「しゃぶしゃぶ=しゃぶ禅」という図式の定着を目ざすそうだ。
ところで「しゃぶ禅」は、いわゆるチェーン店ではない。お店毎にカラーが異なる。これがコンセプトというから面白い。
「うちの店づくりは、ロケーションありきなんです。だから、ロケーションによって、メニューも、食材も、金額もバラバラ。そのエリアのお客様に、いちばん喜んでいただくにはどうすればいいを、父とおなじように模索していきます」。
「だから『しゃぶ禅』というブランドはない」と菅野さん。「しゃぶ禅○○店」までが、一つのブランドだということだ。スタッフにも、この意識が浸透するように努めている。
この発想は、たしかに面白い。ちがった色があって、全体がより鮮明に色づくことがある。それに、似ているのかもしれない。
これが、40年以上、受け継いできた「しゃぶ禅」のコンセプト。
お客様を楽しませる、父親譲りの作戦でもある。もちろん、最高級のお肉をしゃぶしゃぶでいただく。歓声があがらないほうがおかしい。
主な業態
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