見出し画像

井上梅次と石原裕次郎 ~窓の下に裕次郎がいた~ #01

『素晴しき男性』(1958年 ©日活)撮影時のスナップ

11本の助監督を経て、28歳で監督になった井上梅次。当時日活では、五社協定のため世間に名の知られたスターを使うことが困難な状態で、「新しい時代を感じさせる新たなスター」が常に探し求められていました。

井上は次々と新しい役者の才能を見出して起用し、彼らのための適切な名前やシーン、役柄を与えスターとして育てました。

なかでも当時、未完の大器であった石原裕次郎を見出し、日本映画界を変える存在に育てた背景には、さまざまなストーリーが残されています。残された資料、井上の著書などから、ご紹介いたします。

「いままでに会ったこともない大きな器」

当時の日本映画は、私小説的な芸術映画が主流であり、封建的な暗さ、貧しさが多く描かれていました。当時の若手監督はなんとかその暗いイメージをぶち壊し、バイタリティ溢れる映画を作りたがっていたといいます。そこに登場したのが石原裕次郎でした。

井上と裕次郎との出会いは、井上が日活で代打監督をしていた頃でした。他監督が断った作品がピンチヒッターとして井上のもとに回ってきており、数をこなすうちに、井上の合理的な制作姿勢が幹部の信頼を得始めていた時でした。

当時の日活の製作責任者、江守常務から「売れるスターが足らんのだ、やってくれ、任せる」と声をかけられた井上はのちに「私の人生を変えた言葉だった」と回顧しています。

水の江滝子プロデューサーが「日活で育てたい」と裕次郎を連れてきた時のことを、井上は著書でこのように書いています。

逆光のなかに裕次郎が立っていたような気がする。
それはまぶしい光景であった。まさに現代の息吹を感じさせる青年、そして背が高い。いままで見たこともない、恰好いい若者が礼儀正しくニコニコして頭を下げた。

井上梅次著「窓の下に裕次郎がいた」より

「頭の良さが一目でわかる爽やかさがあり、私好みの大型」「何よりも気に入ったのは、現代性とインテリジェンスがあった」「いままでに会ったこともない大きな器に見えた」と絶賛しています。

「あんなガラの悪いのは駄目だ!」

ところが、当時井上の助監督を務めていた舛田利雄によると、井上が認識している裕次郎との初対面の前に、井上は裕次郎を見たことがあるとのことでした。

映画『火の鳥』(1956年・日活)のヒロイン、月丘夢路の相手役を探していたときのことです。

舛田君が水の江プロデューサーに頼まれて、
「あれはどうですか……」
撮影所の二階の監督室の窓から、下の道を肩を振って濶歩する裕次郎を指さした。
「あんなガラの悪いのは駄目だ!」
私は遠目に彼を見て一蹴したそうである。もちろん、その役は彼のものではなかった。

結果は、仲代達矢君の映画初出演となって大いに話題を呼んだのだが、もしこのとき、裕次郎と面と向かって話し合っていたら、どうなっていたかわからない。『火の鳥』で裕次郎を選んでいたとしたら、仲代君の初出演はなかったし、裕次郎は酷評を受けていたような気がする。
少なくとも、その後の彼と私のコンビはうまれていなかったことは確かだ。

井上梅次著「窓の下に裕次郎がいた」より

もともと裕次郎は、兄・慎太郎の代表作『太陽の季節』でデビューしましたが、当時は作家の弟の出演であり、井上によると「素人的なデビュー」でした。

石原裕次郎という素材をどう売り出すか……当時の常識であれば、文芸映画に出演させるのが一番安全な近道でした。彼には太陽族的な時代の要求する新鮮さがあり、『狂った果実』『乳母車』『陽のあたる坂道』などといった他監督の作品が次々と企画されました。

一方、娯楽映画のスターとして、客を呼べる俳優に育てる役目を請け負ったのが井上でした。『勝利者』『鷲と鷹』『嵐を呼ぶ男』『夜の牙』『明日は明日の風が吹く』『素晴らしき男性』などの作品が上映され、急速に裕次郎人気を作り上げました。

このようにして日活は、裕次郎売り出しにいちばん効果的な娯楽、文芸の二面作戦を敢行。短期間に大きな成果をおさめることになりました。

映画『鷲と鷹』(1957年・日活・井上梅次 脚本、監督)の撮影指導をする井上

その他のエピソードも、続けてご紹介いたします。どうぞお楽しみに。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?