「企画の弱点を何で補強するか、それが勝負」(井上梅次の仕事術)
戦後の映画監督として最多の116本の映画を手がけ、多くのスタッフが各社と専属契約を結んでいた時代にフリーランスとして活動した実績を持つ井上梅次。日本の大手映画製作会社6社の全撮影所で監督を務めた、唯一の映画監督でもあります。
単に脚本、監督を担当するのではなく、役者の発掘、名付けや構想、企画など映画の製作に大きく関わっていた井上。映画の「企画」に対してどのような考えを持っていたのか、ご紹介します。
映画製作で一番大事なのは「企画」。それが井上梅次の持論でした。
当時、どの映画会社にも企画本部があり、企画はそこで決定されていましたが、企画本部は本社に置くべきか、撮影所においたほうがいいのか、という問題が常にあったそうです。
本社に置くと製作現場の実情を無視した企画が多くなり、撮影所に移ると配給の実情や地方都市の要望を無視していると揉めることになり、また本社に戻る……ということがどの映画会社でも繰り返されていました。
「企画」もまた、イニシアティブをとるのは個人なのか会議なのか、議論が行ったり来たりしており、いつも映画界で問題にされていました。
井上自身はそんな状況のなか、企画とは案を出すことだけではなく、その後いかに補強し強くするか、そこが肝心であると説いています。
同じことが個人の人生でも言えると思う、と井上は続けています。
「企画の補強」から生まれた初めての映画脚本
「企画の補強」に関連して、ひとつのエピソードをご紹介します。
1950年末、井上が新東宝で助監督として働いていたときのこと。正月映画のシーズンまであと二ヵ月という時期に、正月映画の企画が一本流れてしまいました。
企画も脚本もない状態のなか、プロデューサーが急遽、城昌幸原作の『若様侍捕物帖』を企画として提出しますが、原作はとても短いものであり、それから映画の脚本を作ることができるのか、会社もプロデューサーも不安を覚えていました。
そんな中、井上は「原作の雰囲気だけいただいて、話をこちらで作ればいい」と提案します。「製作日数がないから一つの屋敷のなかで起こる事件がいい」「『ディクスン・カー』の密室殺人事件の雰囲気を漂わせて物語を構成したら、面白いものができると思う」と具体的な提案を重ね、採用されました。
『若さま侍捕物手帖』は1939年の第1作以降続けて発表されており、今回初めての映画化となれば話題性は十分でした。話題性がある。原作もある。ただ原作が短すぎる。井上はこの弱点を「雰囲気を借りる」「こちらで物語を作る」ことで補強したのです。
井上は14時から旅館に籠って脚本を書くことになりました。旅館に着くと同時に「セットデザインを明日までに出さないといけない」という美術監督に「離れ家と地下牢をまず建てるように」指示を出し、19時の夕食までに概略のストーリーと構成のメモを作り、翌朝9時までに230枚の原稿を書き上げ、周りを驚かせました。
井上が初めて書いた脚本は採用となり、この映画は黒川弥太郎、香川京子、大河内傳次郎主演で「若さま侍捕物帳 謎の能面屋敷」(1950年、新東宝)として予定通り1950年12月1日に封切られました。以降「若さま侍捕物帳」シリーズは何作も映画化されています。
井上梅次の企画書
井上が手がけた116本の映画にまつわる資料が井上・月丘映画財団にはたくさん残されています。
大半は映画の台本やアルバム、当時の新聞や雑誌の記事をまとめたスクラップブックですが、なかには「オリジナルストーリー」「企画書」と書かれた手書きの企画書もいくつか残されていました。参考としたであろう新聞記事などもスクラップされています。
井上の企画が採用された後、正式に映画企画となり製本された企画書も多数残されています。
次回以降もまた、井上梅次の仕事術についてお届けします。
その他、井上梅次の当時のエピソード、スター発掘ストーリーや資料は、講談社エディトリアル「創る心」でご紹介しています。ぜひご覧ください。
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