「広島に生まれて、広島に育って、女優になって」ー 月丘夢路と広島 ー
こんにちは、井上・月丘映画財団です。今回は「月丘夢路と広島」をテーマに、女優 月丘夢路のエピソードをご紹介します。
12月16日、広島県広島市中区の平和大通りに、月丘夢路 生誕100周年記念碑 「祈りの記念碑」が建立されました。映画「ひろしま」への無償出演や義援金の寄付、原爆孤児の支援活動などの功績が称えられたものです。
詳細は別途、ご紹介いたします。
月丘夢路 生誕100周年記念碑 「祈りの記念碑」
【建立場所】広島市中区小川3-22-5(平和大通り 白神社前の交差点近く)
広島県広島市生まれ
月丘夢路は広島県広島市生まれ。大手町で薬局を営む両親のもと、二男三女の長女として育ちました。 袋町尋常小学校、県立広島高等女学校(現・広島皆実高等学校)を経て、宝塚少女歌劇団(現・宝塚歌劇団)へ入団しました。
戦争が激化すると宝塚大劇場が閉鎖。月丘は宝塚を退団して映画に軸足を移します。当時、撮影するのは戦争映画ばかりだったことから、終戦後はもう映画は必要がなくなると勘違いした月丘は、当時所属していた大映の永田社長に「広島へ帰ります」と挨拶に行きました。ところがそこで「これからが映画の時代だ!」と力強い言葉をかけられ、月丘の女優人生はここから花開いていきます。
「私も何か世の中に役に立つことがしたい」
月丘は1951年、主演映画「東京のお嬢さん」の興行のため、妹の月丘千秋とともに渡米します。全米約20都市で映画を上映し、歌や踊りを披露するツアーを行いました。
広島で生まれ育ち、宝塚から映画女優になった月丘にとって、渡米は大きなターニングポイントになったようです。「飛行機が飛び立った時からものの考え方が180度変わった、目が開いた」とインタビューでも話しています。
アメリカでは、暮らす人々のマナーの良さ、ごみ一つ落ちておらず花が整備された道の美しさ、出身国や肌の色が違う人達が助け合って生活している姿に心を打たれました。「敗戦国の日本と比べると、当時のアメリカは圧倒的に豊かでした。最初は反抗心から、何よアメリカなんて、自動車がいっぱいあって冷蔵庫があって、それだけの国じゃない、と思ったのですが、アメリカの生活様式やものの考え方を知れば知るほど、その精神的な先進性に打ちのめされました」
そこで月丘は、「生まれてから今まで、努力して何かを自分で得たことがあったのか」と自問自答します。今の自分があるのは周囲の人に恵まれてきたからだ、ここで何か勉強しないと大変なことになる……と考え、帰国後のスケジュールをキャンセル。最終地のニューヨークに一人残ることを決意します。一年半の間、声楽、スパニッシュダンスのレッスンに通い、カーネギーバレエスクールでバレエを学びました。
アメリカでは成功した人はそれを社会に還元しようとします。月丘もそうした姿を見て、どうやって社会に恩返ししようかと考えるようになります。「私も何か世の中に役に立つことがしたい」その思いはこの時から大きくなり、のちに映画「ひろしま」への無償出演に繋がりました。
松竹を説得、異例の無償出演へ
映画「ひろしま」(1953年)は、映画会社ではなく日教組プロ(現在のJTU)製作の映画です。被爆国日本にとって、二度とこのような戦争を起こさせないという平和理念のもとに、日本教職員組合の方々が中心となりお金を出し合いました。被爆者を含む8万5000人を超える広島市民の全面的な協力で制作されました。
当時、月丘は松竹と専属契約を結んでおり、他社が製作する映画への出演は難しいことでした。また、これまで演じてきた役柄とは大きく異なることに、松竹側は難色を示したようです。しかし「戦争を抑止し世界で二度と原爆が使用されないようにするためには、広島の悲劇を世界に広めることが必要だ」と考えた月丘は、この映画に大きな意義を見出し、必死に松竹を説得しました。そして、一度限りという約束で出演を許可されます。
「平和、平和とただ口で唱えるだけでなく、これからも平和のための行動をしよう」
映画「ひろしま」の撮影のために、広島の母校、袋町小学校を訪れた月丘は、学校の変わり果てた姿を目の当たりにします。通学路にあった大きなクスノキの姿は跡形もなく、木造だった校舎は建て直して鉄筋造りになり、子どもの頃、裸足でかけた木の廊下もなくなっていました。「私を知っているのは、運動場の砂だけだった」と撮影日記に記しています。
撮影が始まると、実際に被爆した地元の出演者が当時の様子を語ってくれました。映画では、100人以上が折り重なって倒れる地獄絵図のような場面も再現し、月丘は顔に火傷を負った教師として生徒とともに川に流されていく様子を演じました。
映画「ひろしま」はオンラインで視聴が可能です。ぜひご覧ください。
この映画は、第5回ベルリン国際映画祭で長編映画賞を受賞しましたが、さまざまな事情により、日本国内では全国公開されることがありませんでした。
それでも月丘は出演できたことに感謝し「平和、平和とただ口で唱えるだけでなく、これからも平和のための行動をしよう」と決意しました。
広島でできた、もうひとりの妹
その後も月丘は妹の月丘千秋とともに広島市文化会館で公演をおこない、収益金を市に寄付し、新聞社に義援金を寄付するなどしています。その時に原爆孤児の厳しい境遇を知り、17歳の女性を「養妹」として支援することをその場で決めました。
彼女は学童疎開で広島市を離れていたときに、広島に残っていた両親と兄姉を原爆で亡くし、戦後は五日市戦災児育成所から市役所に勤務していました。月丘たちは、彼女が希望していた広島音楽学校の学費を3年間援助し、卒業後は東京の月丘の家に「家事見習い」として引き取っています。
「どんな理由があろうと、戦争は罪悪です。微力ながら、絶対に戦争には反対です」
いつも穏やかだった月丘ですが、戦争に対する毅然とした態度は生涯変わることがありませんでした。
月丘の生涯をかけた思いが、彼女の生誕地である広島市での記念碑建立に繋がりました。次の記事では、記念碑の詳細についてご紹介します。