井上梅次の合理的な製作術
こんにちは、井上・月丘映画財団です。前回の記事に引き続き、井上梅次の「合理的な製作術」についてご紹介します。
前回の記事はこちら
「合理的な製作術」と表現されることが多い、井上梅次の映画製作手法。所属する映画会社からの急な依頼、一つの脚本を書きながらもう一つの映画を撮る同時進行など、あわただしい日々の現場のエピソードが数多く見られます。「合理的な仕事の進め方」はどのような背景で生まれたのでしょう。
「五社協定」とは
当時の状況をご紹介するうえで欠かせない「五社協定」についてご説明します。
五社協定とは、1953年に当時の日本の大手映画会社5社(松竹、東宝、大映、新東宝、東映)が調印した協定で、各社専属の監督・俳優の引き抜きの禁止、監督・俳優の貸し出しの特例の廃止などが結ばれています。
これは、戦後、戦前以来の映画制作を再開させた日活に対し、監督や俳優の引き抜きの禁止を封じるためのものとされています。(のちに日活が加わり新東宝が倒産するまでの3年間は「六社協定」となった)
日本映画全盛期だった当時、各社は競い合ってスターを発掘しながら映画製作していました。
井上梅次の著書のなかで、当時日活で石原裕次郎を抜擢、『嵐を呼ぶ男』(1957年)を製作中の描写があります。常に、他社との力関係や順位を気にする状況にありました。
参考までに、この1957年1月の公開映画の数を調べたところ、【全64作】とありました。いかに当時の映画業界が華やかだったか、そして競争が激しかったかが分かります。
スターを生み育て、脚本を書き映画を作る
五社協定が結ばれた二年後の1955年に日活に移籍した井上梅次は、常にこの「競争」の中にいました。急な依頼を受けたり、時間的、金銭的制約のなかで映画製作をしていました。
世間に名の知られたスターを使うことが難しかったため、井上はこれまでの評価にとらわれず、次々と俳優たちの新しい才能を見つけ起用し、売り出すための適切な役柄を与え、時には名前もつけて、脚本・監督をこなしながらスターに育てていきました。石原裕次郎、浅丘ルリ子、鶴田浩二、赤木圭一郎、田宮二郎、雪村いづみ、白木マリ、待田京介、藤巻潤とのエピソードが残されています。
「職人になることがいちばん大事」
「職人」と称されることが多かった井上梅次。1963年のインタビューでは、次のように答えています。
撮影当日同様、計画的に綿密に撮影までの時間を設計していた様子が浮かびます。
スター発掘、脚本執筆、撮影、演出までを一気通貫で担当していた井上梅次。本人が保存していた絵コンテや台本から浮かび上がるのは、何度も何度も練り直し、校正を重ねている姿です。几帳面だった性格とあわせて、「作品をより輝かせるためには何ができるか」を常に考えていたことが分かります。
その他、井上梅次の当時のエピソード、スター発掘ストーリーや資料は、講談社エディトリアル「創る心」でご紹介しています。ぜひご覧ください。
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