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井上梅次の合理的な製作術

こんにちは、井上・月丘映画財団です。前回の記事に引き続き、井上梅次の「合理的な製作術」についてご紹介します。

前回の記事はこちら

「合理的な製作術」と表現されることが多い、井上梅次の映画製作手法。所属する映画会社からの急な依頼、一つの脚本を書きながらもう一つの映画を撮る同時進行など、あわただしい日々の現場のエピソードが数多く見られます。「合理的な仕事の進め方」はどのような背景で生まれたのでしょう。

「五社協定」とは

当時の状況をご紹介するうえで欠かせない「五社協定」についてご説明します。

五社協定とは、1953年に当時の日本の大手映画会社5社(松竹、東宝、大映、新東宝、東映)が調印した協定で、各社専属の監督・俳優の引き抜きの禁止、監督・俳優の貸し出しの特例の廃止などが結ばれています。

これは、戦後、戦前以来の映画制作を再開させた日活に対し、監督や俳優の引き抜きの禁止を封じるためのものとされています。(のちに日活が加わり新東宝が倒産するまでの3年間は「六社協定」となった)

日本映画全盛期だった当時、各社は競い合ってスターを発掘しながら映画製作していました。

井上梅次の著書のなかで、当時日活で石原裕次郎を抜擢、『嵐を呼ぶ男』(1957年)を製作中の描写があります。常に、他社との力関係や順位を気にする状況にありました。

その帰路の列車のなかで、夕刊に出ている各社の正月一週の番組広告を見て、北島氏とあれこれ検討した。当時、正月一週映画は十二月二十九日より一月二日まで上映された。(中略)いずれもオール・スター映画であった。『嵐』がどこまでくいこめるか?ーーーだいたいいつもは東宝・松竹・大映・東映が上位を争い、下位の二つを日活と新東宝が争っていた。『嵐』の出来には自信があったが、何しろきら星の如く並ぶ各社のスター陣にくらべてなことに弱い。殴り込みをかけて上位四社の一角を切り崩せるか……
「四位はいける」
とする私に対し、北島氏は
「いや、三位に食い込む」
と読む。逗子から東京までの一時間半、その論議が続いた。

井上梅次著「窓の下に裕次郎がいた」より

参考までに、この1957年1月の公開映画の数を調べたところ、【全64作】とありました。いかに当時の映画業界が華やかだったか、そして競争が激しかったかが分かります。

スターを生み育て、脚本を書き映画を作る

五社協定が結ばれた二年後の1955年に日活に移籍した井上梅次は、常にこの「競争」の中にいました。急な依頼を受けたり、時間的、金銭的制約のなかで映画製作をしていました。

世間に名の知られたスターを使うことが難しかったため、井上はこれまでの評価にとらわれず、次々と俳優たちの新しい才能を見つけ起用し、売り出すための適切な役柄を与え、時には名前もつけて、脚本・監督をこなしながらスターに育てていきました。石原裕次郎、浅丘ルリ子、鶴田浩二、赤木圭一郎、田宮二郎、雪村いづみ、白木マリ、待田京介、藤巻潤とのエピソードが残されています。

「職人になることがいちばん大事」

「職人」と称されることが多かった井上梅次。1963年のインタビューでは、次のように答えています。

演出っていうのはですよ、昔は台本を読んでコンテを作って俳優さんに芝居をつけるのがすべてだった。いまは違うんです。どの層の客をどのくらい動員するにはどんなおもしろ味を加えるか、このくらい金をかければ、かけた以上の魅力ができるというところまで計算しなければいけない。演出の九割まではそのへんの計画で芝居をつけたりカット割りなんかは残りの一割ですよ。
(中略)
どうも日本の映画界は「職人」ということばを悪い意味で使う人が多いんですが、高度のプロ化を要求されているいま「職人」になることがいちばん大事なことじゃないかと思うんです。

昭和38年5月 新聞各社インタビューより

撮影当日同様、計画的に綿密に撮影までの時間を設計していた様子が浮かびます。

スター発掘、脚本執筆、撮影、演出までを一気通貫で担当していた井上梅次。本人が保存していた絵コンテや台本から浮かび上がるのは、何度も何度も練り直し、校正を重ねている姿です。几帳面だった性格とあわせて、「作品をより輝かせるためには何ができるか」を常に考えていたことが分かります。

その他、井上梅次の当時のエピソード、スター発掘ストーリーや資料は、講談社エディトリアル「創る心」でご紹介しています。ぜひご覧ください。


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