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あまりうるさくは言いたくないのですが(16日目)

おはようございます。ちょっとした変態主婦、優樹祈です。
お目々の乾きとコロナ後遺症での疲れがけっこう深刻でして、ものすごく早い時間に寝落ちたところ、なんと一時に起きました。

ようやく二日前からの巡回が終わりまして……お夕飯を食べたらもう眠いのですよ。
「食べてすぐ寝たら牛になる」と幼い頃からよく聞かされてきましたが、抗えないほどの眠気の波が押し寄せてきて流される日がよくあります。

普段、在宅でおしごとしていて時間帯も自由な身だからいいですけど、これ、もし通勤せねばならなかったとしたら完全に潰れていますね。
どうしても動けないときは、ア◯ナミンとかレッ◯ブルとか飲んでおります。
だいたいレッドブ◯です。(最終手段)

※炭酸飲料、プロフィールに苦手と書きましたけれども、唯一飲むのがレッドブルでして。必要に迫られて飲んでますが不健康すぎますね……。


さて。
今回は「デザイン思考と本質追求を楽しもう♫」さんの、こちらの記事について。

~あまり“自由”すぎると国語が崩壊しかねない~

かいつまんでお話するだけでは本筋そのものを見誤るお話ではあるのですが、あえて要約すると、「時代の流れによって言葉の意味や捉え方は確かに変わっていくことがあるけれども、その主張を印籠に”暴走する自由人”が国語の体系を引っ掻き回すことの危険性」について言及されている記事です。

わたくし、この記事を拝読し、思うところをコメントしようとしたのですけれど、長すぎて投稿できなかったのですよ。
そこで記事にさせていただこうと思ったわけなんですけど。

先日のつぶやき。

ここでもこう書いた通り、「国語の体系」として引き合いに出すならば、単語だけではなく句読点や句点も「国語の体系」に含まれると個人的には思うのですよね。

なんというか、個々人がそれぞれ「自分にとって使いやすい使い方」を追求していくあまり、たとえば三点リーダだったら「。。。」や「、、、」の方が使いやすいとか、句点は圧に感じられるから使うべきではないとかいう発想になっていくのではないかな、と思うのですけど。

ただですね、個人的には、やはり何事にも「形」や「型」(つまり体系)というものはあった方がいいのではないかと。

たとえば、着付けを習わずに我流で着物を着ようとしてもなかなか上手くは着られないでしょうし、武道で型を無視して技を磨こうとしても、やはり思うように上達しないのではないかということなんですよね。

基本、基礎、形、型――言い方は色々ありますが、つまり体系というものを無視するということは、いわば建物でいえば基礎工事がなっていない、骨組みができていないのに家を作ろうとしているのと同じなのではないでしょうか。

「温故知新」という言葉ではちょっと意味合いが違うかもしれませんが、時代の流れによって変わっていくものがあったとしても、そもそも何故そういう体系ができたのか、というところに視点をフォーカスさせないと、新しい見解を正しく導き出すことはできないように思います。

さきほど着付けの例を出しましたけれども、綺麗にきちっと着付けられたお着物を着てらっしゃる方を見ますとやはり美しいですし、見ていて背筋が伸びる気持ちがいたします。

少なくとも、わたくしはそうですね、というお話をしたかった今朝でした。





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