『モーセと一神教』 ユダヤ人であるフロイトの意識は、キリスト教は宗教的な意味でも「一つの進歩」だった(世界の歴史)
ユダヤ人が割礼を行う習慣で他の民族との違いを明示的に表しているが、原始キリスト教においてそのことが論争となり、ユダヤ人以外にも割礼を強要する必要があるとするヤコブ、ペテロに対し、その習慣を排除した方が良いとしたパウロとの間に対立があったことは良く知られている。
しかし驚いたことに、本書によると、割礼の習慣はエジプトにあったもので、もともとユダヤ人にはなかった習慣だとしている。そこからモーセがエジプト人だという仮説論文が書かている。
最晩年の著作である本書のテーマは、なぜヨーロッパでユダヤ人が迫害されたりしなければならなかったかをまとめている。ユダヤ人は怖い父親を倒して母親を自分のものにしたいという願望をもっており、父親への恐怖心も強くなるエディプス・コンプレクスそのままの状態で、ユダヤ社会はそうした近親相姦的な血縁のきずなと、それに伴うエディプス的な罪悪感に成り立っている。キリストが父親に対して反抗する息子、あるいは母親を父親からとってしまうような息子の代表として磔になる。それにより、旧約聖書的なユダヤ人のもっていたエディプス・コンプレクス的な家族的、血縁的なきずなから抜け出し、普遍的な人間愛とか倫理性に到達できた、としている。
ドイツにおいてユダヤ人が嫌われる理由は、「選ばれた民族」と信じているユダヤ人に嫉妬を感じていることと、さらに面白い仮説は、ゲルマンの民族は土俗的な宗教を捨てて、キリスト教を押し付けられたことをいまだに無意識のうちに恨んでいるが、今となってはその恨みをキリスト教に向けることができず、キリスト教の源泉であるユダヤ教を目の敵にしているのだという。この説はヒトラーを北欧神話のヴォータンに見立てたことがゲルマン民族の元型(ユング)だという説と一致する部分があり面白い。
いずれにしても、ユダヤ教は化石のようなもので、キリスト教は宗教的な意味でも「一つの進歩」としたユダヤ人であるフロイトの最晩年の意識が読み取れる。