『歴史の中の日本』ウクライナとロシアの戦争以降、ロシアを理解するための勉強を続けているが、司馬遼太郎によりとうとう出雲に導かれた(日本の歴史)
ウクライナとロシアの戦争以降、ロシアを理解するための勉強を続けているが、司馬遼太郎により、とうとう出雲に導かれた。
東北出身の人に、ズーズー弁はロシア語に似ているんだ、と聞いたことがあるが、ズーズー弁が浸透しているのは、青森県から福島県北部・新潟県阿賀野川までの東北地方(三陸沿岸地域を除く)および北海道沿岸部と、富山県中東部、山陰地方中部(鳥取県西伯耆と島根県出雲)といわれている。さらに、ズーズー弁は出雲で発生し、弥生時代(稲作の拡大に伴い)または古墳時代に、出雲から北陸、東北地方への移民によりもたらされたという。
ならば、ズーズー弁のルーツは何か、という疑問が湧いてくるが、ズーズー弁は満州族やオロチ族(ロシアの少数民族)などのシベリアと中国の東北地方に生活している複数の民族が使うツングース語族の言葉だという。つまり、ロシアや中国東北地方から出雲に伝わり、その後、日本に浸透したのだ。
司馬遼太郎は本書で、次のようにまとめている。
そして、乗っ取り(国譲り)が行われ、天孫民族と出雲王朝との協定は、出雲王は永久に天孫民族の政治にタッチしないということで、哀れにも出雲の王族は身柄を大和に移され、三輪山のそばに移住させられた。三輪氏のルーツがそれで、もともと奈良県は出雲王朝の植民地のようなものだったとしている。神武天皇(初代天皇)が侵入するまで出雲人が耕作を楽しむ平和な土地で、三輪山を中心に出雲の政庁があり、神武天皇の好敵手だった長髄彦(ナガスネヒコ)も出雲民族のリーダーのひとりだったんだと。
古代日本では、ツングース系(ロシアか中国東北地方)の人たちから天皇系の人たちに国譲りが行われたことは、古事記に記されている。その後、出雲の人は大和地方の三輪山近くに連れてこられたためか、奈良県人は、同じ県内にある神武天皇の橿原神宮よりも、三輪山の大神神社を尊崇し、毎月ツイタチ参りをする、と司馬遼太郎はこの本に書いている。「オオミワはんは、ジンムさんより先や」というのが奈良県人の意識らしい。天皇制が生まれる前の怨念が、今でも奈良県に伝わっているとしたら、ウクライナがドンバス地方をロシアに譲り、ロシアのどこかの地域に連れていかれたとしても、奈良県人と同じように、ロシア正教より、ユニエイトやウクライナ正教会を重要視し続けることになるのだろう。
この本の最初の1項しか読んでいないが、出雲と三輪山を訪れてこのことを実感してみたい気持ちに駆られた。
Creative Organized Technology をグローバルなものに育てていきたいと思っています。