『野田一夫氏命名の特命研究員』(日本の歴史)
ふと思い立って、野田一夫氏の思い出をまとめてみた。
私は26才(1986年)から10年間ほど組織工学研究会の事務局員を行っていた。そのときに、名古屋の事務局長の武田源吾氏に借りた『未来を拓く着想』(実業之日本社)の裏表紙にあった野田一夫氏の推薦文が、端的に糸川さんを表したものだったで、感心したことが、野田一夫氏の名前を知ることになった最初のきっかけだ。
野田一夫氏の『悔しかったら歳を取れ!』 (幻冬社)によると、野田一夫氏の父親である野田哲夫氏は、東大物理学科を卒業後勤めた海軍技術研究所時代にドイツに留学し(おそらくゲッチンゲン大学)、日本人として初めて航空力学を学んで帰国。技師として三菱重工に入社し、九六式艦船や零戦開発の総責任者で、「親父の影響で、子供の頃から”航空少年”だった。当時の僕たちによっての零戦の設計主任の堀越二郎さんや隼の糸川英夫さんは、今の”野球少年”にとってのイチローや松井。そんなふたりが兄事する親父は憧れであり、誇りだった。だから自然と、将来は親父を超えるような航空技師になることが僕の夢になった」とあり、糸川さんと野田一夫氏はつながりがあった。
その後、糸川英夫氏は六本木で、野田一夫氏は赤坂見附で、シンクタンクを経営することになる。
赤坂見附の野田一夫氏の事務所には2013年に友人の紹介で訪問したことがある。そのとき以来、野田一夫氏の創業したシンクタンク財団法人日本総合研究所の四ツ谷の事務所に少しの間お世話になった。
よくよく考えてみると、糸川英夫氏の組織工学研究所では名古屋の事務局員、牧野昇氏の計らいで三菱総合研究所(大手町)にインキュベータで入居、野田一夫氏の日本総合研究所では、野田一夫氏が命名してくれた「特命研究員」としてしばらく事務所に通っていたので、いわゆる「和を重んじない、個性ある変人と言われる人(日本では)」とは、なぜか奇妙な接点があったことになる。
野田一夫氏から学んだことが2つある。
一つは「国家」と「国」の違い。
英和辞典で「国」という項目を引くと、必ずcountry, nation, stateの3つが出てくるが、語源的にこの3つは意味が微妙に異なる。これらのうち、すでに日本語化しているcountryは本来が「故郷」を意味するから、country songは断じて「国歌」ではない。
英語で「国歌」はnational anthemであり、「国家機密」はstate secretなのに、日本では”国”と”国家”は、明治の昔から混同されたままだ。だから僕は長らく、「小学生の頃から、日本の子どもに”国”と”国家”の本質的な違いを明確に教えるべきだ」と折りあるごとに主張し続けてきている。もう少し具体的に言えば、”国家”とは主権を確立した土地に住む人々の言行を法律によって規整する”権力機構”だから、必要な存在には違いないが、国民としては常に監視すべき対象にほかならない。
これに対し、”国”とは「うさぎ追いし かの山、こぶな釣りし かの川~」の童謡でいみじくも表現されたように、利害損失を越えた情緒的対象である”お故郷(ふるさと)”なのだ。このことを目覚めさせてくれたのが、僕にとってはMITでの2年間の滞在=人生で初めての外国生活だったと言ってよかろう。
そして二つめは、大学を創業する創業者、それを経営する学長でもあるにも関わらず、教師の現場である教壇に立ちつづけたこと。
多摩大学および宮城大学学長としての10年間も、大学の学長は一般に講義を持たないのに、年間を通じて僕が教壇に立ちつづけたのは、講義が好きだった、というより若い学生と接しているのがことのほか好きだったからだ。
ある年の卒業式の日、僕の研究室にわざわざ挨拶にやって来てくれた見知らぬ卒業生との対話。
やはり、何事も現場が重要だ。