不幸せでいることに飽きてきた。
私は「ずっと続けていく」ということが苦手でした。
正確に言うと続けていくことはできるのだけど、何故かずっと苦しかったんです。
恥ずかしい話しなのですが、どうにもこうにも私自身「続けたことが日の目を見る」という経験をしたことがありません。
「こんなに頑張っているのに認めてもらえない…」
という感情に支配されていたことが多かった気がするんです。
自分のやりたいことに向けて目標を立てて取り組んだことは何度もあって、ただ、私の場合いつも人間関係で疲弊していき、本当にやりたいことを達成する頃には身も心もボロボロで、燃え尽き症候群のように何もできなくなってしまうということを繰り返していました。
そうすると「あの人はできているのに自分は…」と誰かと自分を比べて苦しくなって、SNSも見れなくなってしまう。
でも発信しないと自分の居場所がなくなってしまう気がしてどんどんと不安になっていったんです。
ある日のこと。
まだ私が独身の頃、朝起きて歯を磨いてる時に急に思ったことがありました。
さすがにこの悪循環に飽きてきたな。
もうそろそろそろよくないかい、私よ。
だって毎回同じようなところで悩んでいる気がする。
いつもよろよろと「むりだぁ…」とか言いながら体育座りしてるのよ。
そんな自分の思考回路に飽きてしまったのだ。
というのも、心のどこかで幸せになることを否定している自分がいた気がずっとしていたんです。
不幸せな自分に酔っているような、悲劇のヒロインでいたいような、潜在意識の中で変わることが億劫だと思っていたような…
「幸せになろう」と思おうとすればするほど、謎の拒否反応があるような、そんな不思議な気持ちになっていました。
いつの間にか「不幸せな私」の居心地がよくなっている。
きっとそれは自分を守るために誰かのせいにし続けてきた女の末路だったんです。
顔を洗い自分の顔をまじまじと見た。
私にはどんな未来が待っているのだろう、と。
どんな未来を生きていきたいだろう、と。
アラサーアラフォーという年齢になって感じる、心や体の変化や不調。
それは一人では抱えきれないジレンマがあったりするわけで。
ぶわぶわと黒い何かに飲み込まれそうになることもある。
私もこの感情の渦で息継ぎの仕方もわからずに溺れてしまいそうでした。
悩むことが多いからこそ他責にできたら楽なのだけど、でもそれだと「これは誰の人生なの?」という疑問にぶつかってしまうんです。
顔を洗い終わり、コーヒーを飲みながら紙に自分の思いを書いてみる。
そのノートをパラパラとめくりながら思ったのが、「目標」じゃなくて「楽しみ」を作っていけるようになりたいなぁと思ったんです。
私はやることをいつの間にか「辛いもの」や「苦しいもの」にしがち。
でも本当は「幸せなもの」や「楽しいもの」にしたっかったんだ。
もしかしたら、今まで生きてきた経験を全部活かそうとしてまとめるから、重たい荷物になっていたのかもしれない。
それらを手離すのは勇気がいるけど、意外ともっとシンプルでいいんだと思ったんです。
物事もそうだし、思考や、人間関係も。
するりと手離して身軽でいよう、そう強く感じました。
「がんばり」ばかりに目を向けてしまうと体調やメンタルが不調になってしまいやすいから、少しずつ楽しみを作って、自分の未来に希望を持って、生きることを楽しみたい。
そうだった、私は私の人生を生きているんだ。
自分の手で変えていけるんだ。
というか…
私は自分のことを不幸せだと思っていたけど、実はとっても幸せだったのかもしれない。
ありがたいな。
生まれてこれてよかったな。
そう思えたら、ふと肩の力が抜けてコーヒーの味がよくわかるようになった気がしたのでした。